ヤメテ
「ちっ。回復薬でも持ってたか」
「よ、余計なことを喋るな! あなたの大好きなみどりちゃんを、ぶっ殺しちゃう、かもっ! だから言うことを、聞け。大切なお仲間の、せ、生殺与奪を、私が握っている!」
生殺与奪を、握られてしまいました。
首筋に添えられる刃から、まだ実際に刺されているわけではないにもかかわらず、チクチクとした痛みを覚えます。朝、体から生えた植物が部屋中を覆っていて、お母さんに見られたらどうしようとアセアセしていたら、ずっと下にいたはずのお母さんが、私を呼びに階段を昇ってきちゃいましたと勘違いした時と、同じ。
つまり幻覚です。
刺されたらどうしよう、見つかったらどうしようという恐れが、物事を悪い方へ悪い方へと誤認させる。私の脳、勉強は苦手なくせに、そういうのは得意なのです。
悲観的で嫌になります。
尤も、現在の状況は、悲観的にならずとも相当に悪いのですが……もう動けないはずの府岬に、私が動けなくさせられている。
人質にされてしまっている。
府岬の足掻きに対して、白無ちゃんは「回復薬」とやらの所持を疑っておりましたけれども、ボロボロ死にかけ状態から、女子高生一人を人質にとれるほどにはリカバリーさせられる高性能薬品なんて、ゲームの世界じゃなくてもあるのでしょうか。医療の進歩は日進月歩?
死にかけても大丈夫なら、テロに襲撃、やりたい放題ですね。
本日、驚かされてばかりです。
医療技術発展の負の側面に思いを馳せている途中、私にぴったり付着する府岬が、足を器用に使うことで、地面に落ちたみどりスマホを白無ちゃんに向かって蹴り付け。
「そ、それを使って、今から言う電話番号へ見えるようにか、かけろ! いいな、余計なことはするなよ!」
耳元で、うるさいです。
そんなガミガミ言わなくとも、白無ちゃんには聞こえるでしょうに。知らないかもしれませんが、あの子、耳もいいんです。
というか、人のスマホ蹴りやがって。画面が割れたら弁償させますよ? そもそも私のを使わせずとも、白無ちゃんに自分のヤツを操作させればいいじゃないですか。気が動転してるんですかね。
「…………」
「早く、拾え! いいか、番号は――」
「どこにかける気か、知りませんけれども」
往生際悪く、助けでも呼ぶつもりなんでしょうけれども。私が悪魔になったとか、訳の分からない理由で人を傷つけておいて、体よく逃亡出来るなどと考えていらっしゃるのが、非常にムカムカします。
ムカムカだけじゃ、ありません。
もちろん、刃物を首に突きつけられるなんて体験初めてですので、背筋の寒くなる思いをしてはいますが、それ以上に、何か嫌な予感がします。
苛立ちよりも大きな、胸騒ぎ。
先ほどからの、白無ちゃんの人間味のない、どころか得体の知れない表情。普段の淡々とした無表情とは違う。
怒りを通り越している。
氷のように美しく、でも分厚い氷の下には、グツグツとしたマグマが煮え滾っている。
殺意、殺意殺意殺意殺意、殺意の具現化。
背筋が寒いどころではない、凍る。
腸が熱くなる。
「無駄です。あなたは逃げられません。落ち着いて。逃げる素振りを、見せてはいけません。いいですか、大人しく捕まってください。さもなくば、あなたは……」
「うっうるさい! 人質の分際で! ここで捕まれば実績のマイナスは大きい、私たちのクラスアップの前途は、絶望的になる! アイツらには絶対に負けられない」
説得を遮って、府岬は吠えます。
実績?
クラスアップ?
負けられない?
なんのことか分かりません。分かりませんがしかし、この人、まるで何かに追い立てられているよう……しかし、知ったことではないのです。
このままでは、あなたが。
「レースで私は、勝たなければならないんだ! 勝つ、勝つ、勝つ、勝つ、勝つっ……」
白無ちゃんを牽制すべく、視線を府岬から外し、親友をギラリと睨みつけます。なんて剣呑なオーラ、今にも爆発寸前です。
怒ってくれるのは、嬉しい。
でも、どうか早まらないで、絶体絶命ではありますけれども、まだ私は生きているのですから、すべて穏便に済ます道が、あるはずなのですと。
お願いです、あなたを、私の中の白無ちゃんのままであらせて、どうかこんな形で壊さないで。
どんなに憎くても、人を殺さないで。
と、懇願の祈りを込めて、睨みつけようとしたのです。
さくり。
「あ」
興奮して手元を誤ったのか、府岬の小太刀の鋒が、首筋を切り裂きました。
頸動脈が。
開放されて。
抜ける。人として在るための、体の内側の圧力が、抜けていく。
立ってられない、ダメだ死ぬ、ダメだ生きろ私、でもどうしたら。
目眩と虚脱感が、思考に仕事をさせてくれない。ならばもう、考えても意味はなし。だから無意識、私を助けて。
ニュルニュルと何かが、左の首筋で動く感覚。
傷口が封鎖されて、血液の脱漏が抑えられる感触。
刹那を乗り切り、少ないタイムリミットをギリギリでクリアして、なんとか命は繋げた、しかし時はすでに遅く。
倒れ行く私が目の当たりにしたのは、鬼の形相で腕を伸ばし、きらりと白糸を閃かせ、府岬の首に巻きつける木無白無。
「ち、違うの、これはっ手が滑って」
「お前はもう、死ね」
やめて。
静止の気持ちばかりが先走って、声にならない。なぜか景色が、スローモーション。
網膜のハイスピードカメラ化。
思考が加速したのです。速くなったり遅くなったりと、なんて忙しい。ああ、やめてと思うだけなら、終わるまで何度でも思えそう。
運悪く。姿勢的に、次は府岬の様相。
ゆっくりと、ケーキにナイフが埋まっていくように、糸が、凶器が、首の肉に食い込んでいく。
何を見せられているのでしょう。ただの女子高生が、観賞していいシーンじゃないのに。
ただの女子高生が、切ったはったの命のやりとりなんて、していいはずがないのに。
「やめて」
ようやく口から声を発せた頃には、府岬の首がぼとりと落ちて、それに追いすがるように、地面に吸い込まれる血と、胴体。
落下した首の眼に、私の姿が映ります。恨みがましげで、下手すると、末代まで呪われそうな瞳でした。
身が竦む、縮み上がる。呼吸が一瞬、苦しくなる。
一生、忘れることは出来ない十字架を背負った、気がした。
「みどりっ」
白無ちゃんが、人を殺したばかりとは思えないほどすごく心配した様子で、私に駆け寄ってきます。罪悪感とか後悔とか、そういう殊勝な気持ちは一切なさそうで。素晴らしい切り替え能力です。
切るのが得意なんでしょうか。
という痛烈な皮肉は、どうにかこうにか飲み込みます。助けてもらった身の上で、批判する権利はありません。でも、だけれども、やっぱり、どうしても納得がいかない。
「良かった、無事で……」
「殺すしか、なかったのですか?」
責める資格は、私にはないのです。分かってます。客観的に見れば、府岬は白無ちゃんに殺害されても、私の返り討ち代行をされても、文句の言えないことをしていました。分かっているのです、まずはお礼をすべきなのです。
なのに口が、理性に反する形で動くのです。
「殺すしか方法は、なかったのですか? 府岬を生かして捕らえる、そういう未来も、白無ちゃんなら模索出来たんじゃないですかっ」
「…………私を、許せない?」
道理に逆行して、理不尽な疑問を浴びせかける私へと、白無ちゃんは怒ることなく、にっこり笑いかけてくれました。
倒れ伏す私を気遣って、膝枕までしてくれる。
てっきり、ムッと眉根を顰めるくらいはするかと思っていたので、少し面食らってしまいます。
「みどりの意思が、私の意思」
「え……え?」
「みどりの正義が、私の正義」
そう言って、首の切断に使ったものと同じ白糸をどこからか取り出し……自らの首にくるりと巻きつけて、その両端を、
私の両手に握らせて。
「許せないなら、それでいいんだよ。死の罪は、死を以って償うべき? みどりになら、処刑されてもいい。私の命は、みどりのものだよ」
「なっ何を」
何を言っているのです、か?
急いで、糸を手放します。その小さな衝撃で、白無ちゃんの首がちょびっと切れて、糸を伝って血がツーっと垂れてくる。
小さな頃から、ずっと感じていましたが。
慕ってくれているとは思ってました。
白無ちゃんは、私などでは到底及びもつかない、すごい能力を持っているのです。光区碧など吹っ切ってしまえば、ずっと遠くまで冒険出来るのに、いつまでもいつまでもくっついてきて、小中高と、人生を棒に振っているようにしか見えなかった。
私との絆を、宝物のように大事にしているのは、見て取れました。でも同時に、頭のいい白無ちゃんなら、いつか切るべき絆と理解しているはず。
いつか切れる程度の絆と、頭の中で整理はついているに違いない。
だから、白無ちゃんが巣立つその日を、私は覚悟していました。ボロ雑巾として捨てられる可能性すら、考慮していたのですけれども。
どうやら無能な私は、トンだ見当違いを起こしていたようです。
認識不足でした。
白無ちゃんは私という存在に、ずぶずぶと傾倒し、もはや分離が不可能なほどに、一方的な融合を試みている。
拠り所、依存先にされている。
白無ちゃんが美しい花とすれば、差し詰め私は、その植木鉢――生命線。植え替えようとすれば途端に枯れてしまう儚き白い花を、私はいつの間にか育てていたのかもしれません。
なんのことはありません。「植物」人間化する前から、すでにプランテーションしていたのかと、今、ふと悟りました。
自信過剰ですか? いいえ、紛れもない事実。むしろ過少に見積もってるかも。
白無ちゃんの私を見る目が、それを物語っています。
無垢で、親に頼りきりな、幼児的輝き。
しかし、白無ちゃんからこれほどまでに寄りかかられる理由が、不明。阿呆で矮小な存在たる私が、白無ちゃんからおんぶに抱っこをせがまれるほど、頼りがいのある何かを見せたかと言われても、さっぱり記憶にございません。
私の疑念を察したのでしょうか、白き無垢なる少女は頬を染めつつ、短くこう答えるのです。
「一匹の悪魔が……人でなしがロクでなしにならなかったのは、みどりという光のおかげ。あなたが光になった時から、私の全部は、あなたのもの。だから」
抽象的な物言いで、結局私が何をしたのかさっぱり伝わってきませんが。巨大な恩義を抱いていることくらいしか、受け手は把握しておりませんよ?
置いてけぼりの混乱状態にある私の耳へと、不意に、白無ちゃんはその端正な顔を近づけてきました。
そして、とろけるような甘い声で、息を吹きかけるかのように、ふぅっと囁いてくるのです。
「そう。私はあなたのものだから、あなたの自由に紡いで、あなたの好きに、裁ち切って」
疑うことなく信じて、身を任せそうになる、その大変魅力的な提案は、まるで悪魔の口車みたい。
一匹の悪魔の、迫真の囁き。
しかしまさしく、木無白無の光区碧に対する、本気の願望だったのです。
私の眼球は、フルフルブルブル、不規則に震えていたでしょう。
小学生の頃から大好きな、花粉より出づる微粒子のように。
みどりのスマホは無事です。
また、第一幕はここまでです。