プロローグ:ツタワラヌ
悪魔になってしまった女の子のお話。
この少女のハッピーエンドを祈りつつ、書いていきたいと思います。
「はぁ、はぁ……」
死にかけの女が、徐々に異形と化しながらも、冷や汗垂らし腹を抑えて、苦しそうに死にそうに、こぢんまりとした部屋の床を這いずる。
最期の力を振り絞り、少しずつ、少しずつ。
これまた「過去で死にかけている」、歳の離れた友達を目指して。
「ごめん。でも、あなたは生きてね」
その××を、確かなものにすべく。
どうにかこうにか、すぐ側までたどり着いた彼女は、自らの血で濡れた、真っ赤な腕を掲げて……。
◇◇◇
死んでしまった人間は、別の何かになるのでしょうか?
あるいは。
はたまた。
生きてる人間の方が、異物なのでしょうか――。
◇◇◇
◇◇◇
◇◇◇
いきなり尋ねて、申し訳ありませんけれども。
知っていますか?
花粉の運動。
正確には、水中で小規模爆発した花粉から飛び出す微粒子の、徹頭徹尾に不規則な、面白おかしい挙動のことを。
もっと正確に言うと、ありとあらゆる球形に近い微粒子が、同じような動きをするらしいんですがね。
インターネットで調べれば、具体的には「ブラウン運動」と検索すれば、その様相、また大体の概要は、すぐに掴めると思います。動画だともっと分かりやすいかな。
ああ、「確率論」とか「ランダムウォーク」とか、「株価」だとか「ブラックショールズ」だとか、そういう小難しい単語もいっぱい出てきますけれど、そんなのは無視して下さって大丈夫。
私にも分かりません。
まだ高校生の私には。
応用研究には毛ほども興味はありませんが……私はあれが、小さな粒のわさわさわさって細かく動く様が、感じが、とっても大好きなんです。小学三年生の頃、理科の先生がビデオを見せてくださった時から、私は虜になってしまったんです。
頑張ってお小遣いを貯めて、顕微鏡を買ってしまうくらいに。微粒子の動きですから、もちろん肉眼では見えませんし。
高い買い物でしたよ、まったく。
最初に、ロバート・ブラウン先生……ブラウン運動の名の元になった偉い人が、粒々の興味深い動きを報告したのは1828年、産業革命も過渡期、まだ大した技術もなかった時代ですから、自作した顕微鏡で以って花粉の動きを調べたそうですけれども。
彼と同じく自作すれば、原材料費だけで安く済みそうではあったのですけれども、頭の悪い私には、彼の作ったという顕微鏡の仕組みを理解する知能も気骨もありませんでした。
だから、買うしかなかったのです。
と、当時両親にした言い訳を今更ここで述べたところで、仕方ありませんね。
買った価値は、値段以上にありました。
少し凹んだステンドグラスに、採取し薄めた花粉の微粒子を乗せて。スポイトで水を垂らして、カバーガラスで覆ってから設置。
接眼レンズを覗き込む。
期待通りに微粒子が動いているか、あるいは失敗しているか、覗いて見るまで分からない。覗き込むまで、事象は成功と失敗かで確定していない、という言い方をすれば、誰もが知るあのシュレティンガーの猫が思い出されますけれども、とにかくそのワクワク感ときたら。
なんで私、こんなに花粉の運動が大好きなんですかね。
小さな物が懸命に動いているのが可愛らしいのか、もしかしたらHなことに、人間でいうところの精子にあたる花粉の有様に、本能的に興味を抱いてしまっているのでしょうか。
人の心の動きについて、一か零かを決められることなんてほぼありませんから、断定的に言うことは出来ないですけれども、やっぱりどちらも違う気がします。
もっと不純な動機です。
恐らく私は、あの激しさに憧れている。
止まることなく動き続ける花粉の微粒子たちに、同化願望すら抱いている。
平凡で普通過ぎる私には、日常を揺るがしかねない危険に身を投じる資格はなく、歩む道は停滞の一言、だからこそ、不規則な激動そのものに、強い慕情を抱いてしまった。
実態として、リスクの大きい人生なんて、これっぽっちも良いもんじゃないのに。
願ってもないどころか、願ってすらなかったのに。
……ああ、そもそも、自己紹介すらまだでした。花粉のことより自分のことです。
十六歳の女子高生であるところの私、光区碧は、花粉の動きに興味があるのと、髪が抹茶色なこと以外は極めてごく普通な少女でありますけれども、はい本当に、運動能力も昔から中くらい、成績はゲゲゲの下で、取り柄なんて好きなことに対する、集中力しかないようなものですけれども。
何故私がこの作品の主役を任され、こうして語り部をやっているのかと問われれば、梅雨のジメジメするこの時期六月ある日に、朝起きたら、とんでもねえ異常事態が自身に起きていたからなのです。
「なんじゃこりゃっ!?」
ベッドに寝転がる私を中心に、部屋中が蔦だらけ。
机も椅子も、通学用バッグも、また漫画でいっぱいの本棚も。
視線を落とせば、体に根が張っている。
極め付けは、人の形に見えなくもない、そして大変気味が悪い、ベッド横の謎の木像。
「ふえぇ、いったい」
これは、なんなのでしょうか。
ツーッとばかりにいつもの道を無感情で進んでいたら、突然頭に植木鉢が降ってきたかのような。
その拍子、鉢に植えられていたパンジーが、頭に乗り移ってきたかのような。
「みどり〜っ」
朝起きたら毒虫になっていた人も、今の私に似た心境に陥ったのかしらんと、読んでもない小説の内容を知ったかぶっていますと、下階からお母さんの声がします。
ビクッとと跳ね上がる背筋。
別に、悪いことは何もしていないのに。
落ち着くのです光区碧、平常心を保ちつつ、いつもの通りのリプライを!
「え、ええ、え、とととと、なにおっかさんっ!??」
「? おっかさん〜? 変な呼び方ね〜。ま〜いーわ、白無ちゃん来てるから、早く起きて支度なさ〜い」
普段のおおよそ五倍くらいはDJスクラッチをかました挙句、お母さんをおっかさんと呼んでしまいました。どこがいつも通りの平常心なのか、ちょっと動揺し過ぎなのです。
しかし、白無ちゃんが来てるのですか……待たせては悪いですし、すぐさま下に降りていきたい気持ちも山々なのですけれども。
部屋のこれ、蔦、蔦、蔦…………どうすれば。
はぁ。
花粉になる妄想はしたことありましたけれども、まさか私、「植物」人間になってしまうなんて!