Cafe Shelly 希望を描く私
「さとこ、いつまで寝てるの。早く起きなさい」
お母さんの声で今日も起こされる。あ、バイトに行く時間だ。
「まったく、いつまでこんな生活続けるつもりなの。いくら夢を追いかけるといっても、そろそろ限度があるでしょう」
お母さんのお小言、これも朝の恒例行事だ。時計は朝の九時をさしている。今朝は三時までやってたんだから。もうちょっと寝たいなぁ。そう思いつつもバイトが十時からなので起きないといけない。
三時まで何をやっていたか。それはマンガ。マンガを読んでいたのではない、描いていたのだ。今度の同人誌用の締め切りが今週末に迫っている。今は追い込み作業をやっている。この締め切りに間に合わないと、今度のコミケに出品できなくなるからなぁ。
私が同人誌で描いているマンガ、それなりに人気はある。ほんの一部だけどファンもついている。だから、そのファンのためにも必死になって描いている。将来の夢、それはもちろん世間に認められるマンガ家になること。メジャーデビューできるように、日々の訓練としてこうやって同人誌で腕を磨いている最中だ。もちろん、雑誌社に持ち込みもしている。けれどなかなか認めてくれない。でも私は決めたの。
「今日もみんなの希望のために頑張るぞ!」
こうやって毎朝布団の中で、自分に対して使命感を燃やす。私はマンガで人の心に希望の光を灯していきたい。いつからだっけ、こんなふうに考えるようになったのは。
「いってきます」
口にはパンをくわえたままバス停へ走る。ホント、マンガの世界だな。ここで曲がり角で美青年とぶつかりでもしたら、それこそマンガだ。なんて展開を考えつつ、アルバイト先へと急ぐ。
私のアルバイト先、それは文具屋さん。ここにはマンガに必要な画材がそろっている。さらに、マンガを自由に描けるコーナーまである。私はもちろん、そのコーナーの担当。夕方くらいから中学生や高校生のマンガ家の卵がぞくぞくやってきて、同人誌の作成に勤しむ。そこで画材やテクニックのアドバイスもする。そして店が終わってから私の時間。
「さとこ、ここはもうちょっと派手に見開きで行こうよ」
「うぅん、そうすると次のページがちょっと迫力がなくなるのよね」
まずは同人誌仲間とマンガの打ち合わせ。私の描くマンガはファンタジー。主人公の冒険の姿を通して、希望を捨てないで生きることを伝えようとしている。けれど仲間はもっと過激さを要求してくる。
私はストーリー重視型で、あまり派手なコマ割りはしないタイプ。同人誌を一緒につくるマンガ友達はド派手な感じでいくタイプ。双方の意見はいつも分かれる。なんかしっくりこないことを感じつつも、周りからのアドバイスにも耳を傾けないと、という思いもある。結局今回は友達のアドバイスを採用することに。
これでまたネームは描き直しかぁ。そうなるとストーリーも一部変更しないと。
家に帰ってきたのは夜の十一時。そこからネームの修正作業に入る。なんだか頭の中がゴチャゴチャしてきた。こんな感じだから夜中まで起きていることになる。私って要領が悪いのかなぁ。
そんな毎日を繰り返しながらも、気持は充実している。大好きなマンガに囲まれる日々を送れるのだから。けれど、いつまでもアルバイトと並行するわけにはいかない。一日も早くメジャーデビューしなきゃ。気持だけは焦る。
そんなある日のこと。ようやく同人誌のマンガも締め切りまでにはペン入れが終わりそうだという日に事件が起きた。
「あの…これ、受け取ってください」
「えっ、なに?」
アルバイト先で突然手紙を渡された。相手は大学生の男の子。よくここを利用する人で、結構話はする。
よく考えたら名前も知らない男の子。私より年下だけど、さすがに大学生にもなるとしっかりしている。マン研だとは聞いていたけれど。
彼は私に手紙を渡すと、照れ隠しなのか走って姿を消してしまった。
ちょっと呆然とする私。一体何?
恐る恐る手紙を開いてみる。すると、そこには文章ではなくマンガでこんなことが描かれてあった。
「いつも親切にアドバイスしてくれてありがとうございます。ぼくは飯島さんのマンガの大ファンです。そして、飯島さんのファンでもあります。長い髪、大きな目、素敵な笑顔。そんな飯島さんのことを、ぼくは…」
ぱらりと次をめくる。するとそこには一面に大きく、花束を渡すシーンが。そのセリフはこうだった。
「大好きです」
そう言われて悪い気はしない。けれど、彼をそんな風に見たことがないから。私はとまどってしまった。
思えば中学の時にマンガ家に目覚めて。色恋沙汰なんて無縁の世界で生きてきた。周りからはマンガオタクだって言われてたけど。そんなのお構いなしに生きてきたからなぁ。私ってそんな風に見られてたんだ。なんだか急に恥ずかしくなってきた。
「さとこさん、なにかいい事あったの?」
職場の人からそう言われちゃった。私、そんなににやけてたかしら?
でも、マンガのラブレターなんてめずらしいな。マン研らしいやり方だ。けれど、私は彼のことをそんな目線で見たことがない。明日から、どんな顔をして彼に会えばいいのだろうか?
彼はほぼ毎日といっていいほど、このマンガコーナーに来ている。それって、ひょっとして私が目当てだったってこと? 彼の希望は私ってことになるのか。
私はマンガで希望を持つことをテーマに描いている。その希望をリアルな私が打ち壊していいのだろうか? でも、叶えられない希望を持ち続けられても困るし。私、どうしたらいいの?
「あれ、今度は悩み?」
さっき声をかけてくれた職場の人が、また私を見てそう声をかけた。
「はい…ちょっとお客さんのことで」
「なに、どうしたのよ?」
この職場の人、日高さんって言うんだけど。年齢は私より十歳くらい上かな。おせっかいな近所の主婦って感じの人。担当のコーナーが違うから、挨拶を交わす程度でそれほど話はしたことない人なんだけど。なんだか私に興味を持ったみたい。
「ねぇ、何があったのよ?」
ここは正直に話すべきか、それともごまかすべきか。なんとなく、心の中の私が「話せ」っていっている。
「日高さん、ちょっと話を聞いてもらってもいいですか?」
「うん」
日高さん、私がそう言うと目を輝かせ始めた。どうやらおせっかいな性格がウズウズし始めたみたい。私はさっきのマンガラブレターを見せて、いきさつを話した。
「なるほどぉ。さとこちゃんは希望をテーマにしているから、人の希望は崩したくない。だからといって、その大学生とつきあうつもりはない。だから困っているってことね」
ここで日高さん、ニヤリと笑う。
「ちょっといいのがあるのよ」
そう言って私をバックヤードに連れて行く。そこには従業員の休憩所がある。日高さん、そこで自分の水筒を取り出した。
「これ、コーヒーなんだけど。ちょっと飲んでみない?」
「えっ、コーヒー、ですか?」
どうしてここでコーヒーなんだろう? 意味がわからないまま、とりあえず紙コップに注がれたコーヒーに口をつけてみる。
うん、いい香り。これってインスタントとは違って、コーヒーらしいって感じがする。口に入れると、深い味わいを感じられる。さらにおもしろいのは、苦味の奥にキラリと光る何かが感じられる。これってなんだろう?
例えて言うと…そう、暗闇の中をさまよっているときにむこうから光を感じた。そこには仲間がいる。そんな感じだ。
仲間、か。そこでふと思った。
同人誌をつくるマンガ友だちはいる。けれど、悩みを打ち明けたり本音で語ったりする仲間とまではいかない。そう考えると、真に語り合える人がいないんだ、私。ちょっとさびしい気持ちになっちゃった。かといって、ラブレターをくれた大学生がそうなるという気はしない。
「ねぇ、どんな味がした?」
「えっ、あ、おいしかったです」
いつの間にか自分の世界に入り込んでしまっている事に気づいてあわててしまった。
「あわてなくていいの。何か感じたり、ひょっとしたら見えたりしなかった?」
「え、そ、そうですね。苦味の奥に光を感じました。その光から、真に語り合える仲間が欲しいなって、そんなことを考えちゃって」
「なるほど、さとこちゃんの場合は仲間なんだ。それが今さとこちゃんが求めているものなんだね」
「たぶん、そうなると思うんですけど。でも、どうしてそれが?」
「ふふふ、このコーヒーはね、魔法のコーヒーなの。私がよく行く喫茶店で出してくれるんだけどね。これは飲んだ人が今欲しいと思っているものの味がするの。人によっては何かを感じたり、映像でそれが見えたりするんだよ」
「不思議なコーヒーなんですね。でも、このラブレターはどうしたらいいんだろう」
相談できる仲間がいるといいんだろうけど。でも解決策にはなっていない。
「そうね…マスターに相談するといいかもしれないな」
「マスター?」
「このコーヒーを入れてくれる喫茶店のマスター。カフェ・シェリーっていう喫茶店なんだけど。一度行ってみる?」
「はい、できれば」
日高さんにカフェ・シェリーの場所を教えてもらった。今日は幸い早上がりの日。この喫茶店に行ってみようかな。そう思ったら、ちょっと気持が軽くなった。バイトが終わって、私は早速カフェ・シェリーに足を運んでみた。
「ここか…」
地図を片手に訪れた喫茶店。小さなビルの二階にある。
カラン・コロン・カラン
ドアを開けると、心地良いカウベルの音が私を迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
同時に店内から女性の明るい声が聞こえてくる。私はその瞬間、コーヒーと甘いクッキーの香りに包まれた。なんだかすごく安心するな。
「あの…日高さんに紹介されて来たんですけど」
初めてのお店でちょっと緊張しながらそう伝えてみる。
「あ、日高さんの。電話で聞いています。どうぞこちらに」
日高さん、電話してくれてたんだ。
通されたのはカウンター席。そこにはこのお店のマスターがいる。にこやかな顔で私を迎え入れてくれた。
「日高さんから聞いていますよ。ちょっと悩んでいることがあるとか。私で良ければお話を伺いますよ」
なんだか話しやすそうな人。
「マスターはこのお店をやる前は高校の先生で、スクールカウンセラーもやっていたんですよ」
女性店員がそう言いながらお水を持ってきてくれた。そうなんだ、どおりでそんな雰囲気を持っていると思った。私はそのお水に口をつけ、一度心を落ちつけた。
「あの、実は私、文具屋でアルバイトをしているんですけど…」
そこで今日起こったことをひと通り話した。もちろん、ここのコーヒーを飲んで感じたことも。
「そうですか。それで話せる仲間がいないってことに気づいた。そういうことなんですね」
「はい。まずはこの大学生にどう伝えればいいのか。希望をマンガで描いている私が、人の希望を失わせるようなことをしてもいいのかって」
「人の希望の前に、ひとつ聞きたいのですが。さとこさん、あなたの希望って何なのですか?」
「私の希望、ですか?」
言われてちょっと考えてしまった。人に希望を持たせること。でも本当にそうなのかな?
「ちょっと悩んでしまったようですね。それでは、その答えをシェリー・ブレンドに聞いてみましょうか?」
「シェリー・ブレンドに聞くって?」
「マイ、説明してあげて」
そう言うと、マスターはコーヒーを淹れる準備に取り掛かった。代わりにマイと呼ばれた女性店員が私の横に来てくれた。マイさん、年齢は私と同じくらいかな。でも、私よりしっかりしてそうな感じがする。
「このシェリー・ブレンドは飲んだ人が望んだ味がするの」
「あ、それ日高さんにも聞きました。魔法のコーヒーだって」
「だから、こういうふうにちょっと悩んだ時にシェリー・ブレンドを飲むと、その答えをひらめいたりすることができるのよ」
「あ、なるほど。だからシェリー・ブレンドに聞け、なんですね」
私はコーヒーの出来上がりをワクワクしながら待っている。私自身の希望、これがはっきりするかもしれない。
「お待たせしました。飲んだら何を感じたのか、それをぜひ聞かせてくださいね」
「はい」
そう言って私は早速シェリー・ブレンドに口をつける。するとびっくり。日高さんからもらったときとはぜんぜん違う味がする。あのときは苦味が強く感じられたけれど、今は違う。むしろマイルドな感じ。
マイルド、やわらかさ。気持の安らぎ。安心できる居場所。そして仲間。私が私でいられる場所。私という存在を心から認めてくれる人たち。それが私の希望。
「マスター、見えました。私の希望が」
私は早速今感じたことを言葉にして伝えてみた。
「なるほど、さとこさんという存在を認めてくれる人たち、ですか。今はそういう人は?」
「マンガ友達はいるけれど、そんな感じじゃないんです。みんな自分の世界にハマり込んでしまって。人のことまで見えていないっていうか」
「ラブレターの彼はどうなんですか?」
マイさんがそう聞いてくる。
「うぅん。確かに私を認めてくれているんでしょうけれど。私が私でいられるっていうのとはちょっと違う気がするんです」
「さとこさんがさとこさんでいられるというのは、どんな条件が必要なんですか?」
マスターに言われて困ってしまった。そんなこと、考えたことがない。しばらく悩んでいたら、マイさんがちょっと目配せ。その目線はシェリー・ブレンドに向いている。
あ、そっか。悩んだらシェリー・ブレンドに聞け、だったな。私は早速その答えをシェリー・ブレンドにゆだねてみることにした。少し冷めたその黒い液体を口に含む。すると、またさっきとは違う味がした。フワフワした感覚が一転してシャキッと切れ味のいい感覚に。味に鋭さを感じる。
鋭さ。今まで私のマンガって、ファンタジーの世界でちょっとフワフワしたイメージだった。けれど、そこには現実味がない。その世界、それはそれで楽しいものかもしれない。
でも、それでいいの? もっとリアルな世界で希望を描くことはできないの? そう思った瞬間、私が私でいられるためのものが見えた気がした。
そうか、私が私でいるために必要なこと。それはこれだったんだ。
「マスター、わかりました。私が私でいるための条件が」
「どんなことなんですか?」
マスターの目線は興味津々。マイさんも目を輝かせて私を見てくれている。
「私、今まできちんと私のことを厳しく評価してくれる人がいなかったんです。マンガ友達は私の作品の評価というより、自分の意見の押し付けでしかなかったから。私のことをきちんと見て、そして私のことを厳しく評価してくれる。そんなパートナーが欲しいって思ったんです」
「なるほど、そんなパートナーか。パートナーってことは、相手は男性でもいいんだよね?」
「えっ!?」
マスターにそう言われて、ちょっとドキドキした。相手が異性なんて考えたこともなかった。けれど私だってお年ごろ。そんな人が欲しいとは思っている。けれど今はマンガが恋人。そう割り切っているところもある。
マスターにそう言われて、心が揺らぎ始めた。私の恋人になる人って、どんな感じなんだろう。自分でもどんな人が恋人になってくれるのか、そこが見えない。
けれど一つだけはっきり言えることがある。私の世界を認めてくれつつも、私の世界に厳しいことを言ってくれる。常に一緒に上を目指してくれる。そんな人がいいな。それが今の私の希望。恥ずかしながらもマスターとマイさんにそのことを話してみた。
「なるほど、そんな人がいいんだね。その大学生はその条件には満たないのかな?」
「そうですね、今はむしろ逆の立場ですから。私が彼のマンガを認めつつも厳しくアドバイスしているって感じかな。あ、そうか」
言いながら気づいた。大学生の彼の恋人にはなれない。けれど、マンガ家の先輩として接することはできる。彼の希望のマンガ家としての道を崩すことにはならないじゃない。何も希望は恋人だけってわけじゃないんだし。
「問題が解決しました」
今思ったことを口にして、自分に対して確認してみた。
「なるほど、その大学生にはそういうふうに接してみるってことだね。
それはいいかもしれないな」
「はい、これなら相手の希望を失うことにはならないと思います。あくまでもマンガ家の先輩として接する。それを徹底してみます」
「あとはさとこさん自身の恋人をどうつくるか、ですね」
言われてちょっと顔が赤くなっちゃった。
「それについてはひとつ提案があるんだけど」
マイさんがそう言ってくれた。どんな提案なんだろう?
「私の勝手な主観なんだけど。さとこさんとフィーリングが合う人って、きっと同じような志を持った人だと思うのよね。でね、このお店にはそういう志を持った人って結構お客さんとして来てくれることが多いのよ」
そこまでマイさんが言って私もひらめいた。
「ってことは、このお店にきたらそういう人と出会えるチャンスが増える。そういうことですよね?」
「うん、さとこさんその通り!」
「はい、ぜひそうさせていただきます。ここのシェリー・ブレンドも気に入ったし。日高さんが積極的に薦めたのもよくわかるなぁ」
私はそう言って、残りのシェリー・ブレンドを飲み干した。そこには最初に飲んだ時に思い描いた、苦味の奥に光るもの、希望が見えてきた。
次の日、日高さんに早速お礼を言ってことの経過を報告した。
「なるほどぉ。さすがマスターとマイさんね。大学生にもそう言うことにしたんだ」
「はい。多分今日も来ると思いますから」
そう言った矢先、例の大学生がいつものようにマンガコーナーにやってきた。彼らって授業をちゃんと受けてるのかしら? 早速、昨日の手紙のお礼をして、私の気持もしっかりと伝えてみた。
「そ、そうですか…」
ちょっと残念な表情。
「でも、ここでボクを指導してくれるんですよね。それだけで幸せです。ありがとうございます」
次にはいい笑顔に。うん、これでいいんだ、これで。希望の形っていろいろあるんだから。それを私なりに表現して、そしてわたしなりのやり方で応援する。これが私のマンガなんだから。
「早速なんですが、今こういう作品に取り組んでいるんです」
その大学生が私に見せてくれたもの。それは社会派のマンガ。絵はまだ荒削りなところはあるけれど、ストーリーとしては面白い。
主人公はカウンセラー。そこにやってくるクライアントとのやり取りを通じて、ストレス社会への警告を促している。
「なるほど…こんな表現のやり方もあったのか」
このとき、頭の中で何かが光った。私は今までファンタジーの世界で自分の中にあるものを表現しようとしていた。けれど、その世界を受け入れてくれるのは若い世代だけ。私はもっと幅広く私の思いを感じて欲しいと思っていた。そうか、思い切ってこういうジャンルに方向転換するのもいいかもしれない。
考えてみれば、弁護士や夫婦関係を描いたマンガ、警察の社会を描いたものなどいわゆる日常生活に基づいているものは多い。こういうものはドラマにもなりやすいし。
頭の中で空想が広がる。そういう漫画を書いて、その中で私のキーワードである「希望」を描けば。それがヒットしてドラマ化、さらには映画化なんてのもありえるかも。でも、社会派のマンガってどんなネタがあるのかしら? 今まで考えたこともなかった。
一瞬迷ったが、そのあと私には心強い味方がいることを思い出した。そう、シェリー・ブレンドだ。あのコーヒーに聞けば答えがでてくるかもしれない。今度カフェ・シェリーに行けるのは…私はシフトを見て、早上がりできる日を確認。来週の水曜日か。自分の手帳に印をつけて、その日を楽しみに待つことにした。社会派に転換するってことは、今の作品がファンタジーでは最後になるんだろうな。
水曜日までは今の作品に力を入れた。迷いを一切捨てて、最後のファンタジーという意識で取り組んだ。
「さとこ、すごーい。なんかこの作品、気合がこもってるね」
同人誌仲間からはそう評価された。けれど本心は言えない。これでファンタージが最後だってことは。ちょっと未練はあるけれど、今からステップアップするためには必要なこと。
仲間からの声にはちょっと愛想笑いで応え、いよいよ水曜日。この日、カフェ・シェリーに来ると窓際の席を薦められた。ここ、すごく気持ちいい。なんとなく落ち着くな。席をひとつ空けて隣には男性客がパソコンを開いて本を読んでいる。私も持ってきた本を開いて、シェリー・ブレンドを待つ。
「お待たせしました。今日はどんな味がするかな?」
マイさんがにこりと笑ってシェリー・ブレンドを運んでくる。お礼を言って私は早速自分の思い、どんなジャンルに手を出すのかというところを頭に念じてシェリー・ブレンドを口にする。そして目を閉じて味を確認。
ん、なんだろう、これ。ちょっと複雑な味がする。苦味、甘み、酸味。この三つがはっきりと感じられた。けれど、その三つがちょうどいいハーモニーをかもしだす。なんだか不思議な味。
「三味一体って感じかな。でも三つってどういう意味なんだろう?」
今回はちょっとシェリー・ブレンドの味の意味がわからない。
程なくして真ん中のテーブル席に男性と女性が座った。カップルかと思ったけれど、どうやら男性の方はここの常連らしく、女性は男性の方を尊敬語で呼んでいる。男性のほうが先生で、女性のほうが生徒って感じかな。盗み聞きをするわけじゃないけれど、自然と二人の会話が耳に入ってくる。
どうやらこの女性も悩みがあって、シェリー・ブレンドに答えを聞きに来たようだ。その会話の中で、良い種を蒔けば良い実を収穫できる、ということを言っていた。
そうだなぁ、私って今まで自分勝手な種しか蒔いていなかったかもしれない。みんなの希望のため、といいつつも自己満足の世界しか描いてこなかったなぁ。社会派のマンガを描くことで、もっとみんなに役立つ情報を提供していく。こういうスタイルを目指さないと。
「うぅん、そうねぇ…私が持っている社労士の情報。これって働く人だけじゃなく経営側にとっても有益になる情報がたくさんあるんですよね。けれど知らない人が多い。それをみんなに提供できれば。でもどうやってそれをすればいいのか…」
この女性は社労士なんだ。良い種を蒔くために、自分の持っている情報を広く知ってもらいたい。けれどその蒔き方がわからない。
このときひらめいた。私のマンガでそれを実現できれば。私は社会派マンガのネタがほしい。むこうは蒔き方が欲しい。お互いに欲しい物が一致するじゃない。
「なるほど、ミサトさんが蒔くことができる種は、社労士として経営者や働く人が役に立つ情報ってことですね。けれど、その蒔き方がわからない、ということか…」
どうやら先生らしき男性の方も蒔き方で悩んでいる様子。ここはチャンスだ。
「あの、もしご迷惑でなかったらちょっとよろしいですか?」
思い切って声をかけてみた。
「あ、はい。なんでしょうか?」
突然私が声をかけたものだから、女性は驚いた様子。
「先程からの会話が耳に入ってきたもので。あ、盗み聞きしていたわけじゃありません。でも、ちょっと興味が湧いてきたもので」
全員の目線が私に向いた。マイさんも、マスターも。
「私、マンガ家を目指しているんです。作品は今まで同人誌でファンタジーとか描いていたんですけど。ちょっと社会派のものを描きたいと思っていて」
言いながら、自分のやりたいことが明確に描かれてきた。
「でも、そんな社会派的なものってネタも思いつかなくて。いろいろ本を読んで勉強しようと思っても、どこから手をつけていいかわからなくて。そしたらさっきの会話が耳に入ってきて、これだって思ったんです」
ここで一呼吸置いた。私の思いが通じるか、ここで勝負だ。
「社労士のお仕事として伝えたいこと。そういう内容をうまくストーリにまとめられたらって思って。会社の中で起きているいざこざを、社労士がうまく解決していく。そんなマンガだったら面白そうだって思ったんです」
言ってしまって、ちょっと落ち着いた。もし、今言ったことが実現できれば。私の新しいテーマが開ける。
「おもしろい、それ、やりたい。お願い、ぜひ一緒に組ませてくれない?」
やった、これで一歩前進!
「私こそ、ぜひお願いします」
だがここで予想もしなかった展開が待っていた。
「あのぉ、その話、ボクにも参加させてもらえないでしょうか?」
「えっ!?」
なんと、隣に座っていた男性が私たちの会話に入り込んできたのだ。参加ってどういうこと?
「ボク、小説家希望なんです。実はボクもネタを探していたんです」
なんと、この男性も私と同じような境遇だったとは。これはちょっとびっくりだ。そこから三人で話がはずんで、どんどん展開していった。
社労士の女性の名前はミサトさん。小説家希望の男性は相田さん。ミサトさんが社労士として持っている経験や事例を元に、ネタとして相田さんに提供する。相田さんがそれをもとに原作を書く。そして私がそれをマンガにする。そういう関係が成り立った。早速明日からその制作作業にとりかかることに。
あまりにも話しがトントン拍子に進みすぎて、なんだか怖いくらい。けれど、これは私が願っていたことでもある。このときに、あのシェリー・ブレンドの味の謎が溶けた。
三味一体。私とミサトさんと相田さん、この個性ある三人が一つになっていく姿をシェリー・ブレンドは予言していたんだ。ここで私たちの存在意義が見えてきた。あとはそれを形にして、さらに進展させていくだけ。よし、やってやるぞ!
翌日、私はありがたことにバイトが休みの日。約束の時間のカフェ・シェリーに足を運び打ち合わせ開始。ここで早速意見の対立が。
「…って思うのよ。最初は勧善懲悪的なことを考えていたけれど、本当にいい会社ってどんなことをやっているのか、これを紹介したいって気もあるんだよね」
これがミサトさんの意見である。今までいろいろなストーリーを手がけてきた私としては、ちょっとそれは物足りない。むしろ勧善懲悪的なストーリーだけれど、最後はみんながハッピーエンド。そんなものがいい。
「うぅん、わからなくはないけれど、ストーリー的な盛り上がりに欠けますよね。かといって、社労士が正義の味方で企業が悪、なんていうのもちょっとどうかとは思いますね」
相田さんはそんな意見を出す。そこは私と同じ意見だ。さすが、今まで小説を手がけてきただけはある。私はその意見にさらに言葉を付け加えた。
「最後はみんながハッピーエンド。これが私の希望ではあるけれど」
各自の要望は出た。けれど話が詰まる。そこで登場するのがシェリー・ブレンド。困ったときにはこれに頼るに限る。三人とも一斉に魔法のコーヒーに口をつける。
「そうか、クライアントとなる人が主人公で、社労士はあくまでもサポート。そんな話が描けたらいいんじゃない?」
ミサトさんの言葉。これは意外だった。
そうか、今まで社労士を主人公にしようとしていたから、ちょっとイメージにずれが出てたんだ。ミサトさんの意見が頭の中で何かをはじき出した。まさに電球が点灯したかのようにあることをひらめいた。
「それ、一話完結方式でたくさんのクライアントの視点で物語を描くと面白いかも。そこで登場する社労士は同じ人物。つまり、物語の主人公はクライアントだけど、一貫して一人の社労士が実は主人公だってこと。これなら何作でも描けそうだわ」
この意見にはみんな賛成してくれた。そこから話はさらに盛り上がり、一作目のプロットが完成。早速ミサトさんが相田さんにネタを提供し、ストーリー作りを始めることに。私は相田さんからのストーリーがくるまで待ちの状態、ということになるのか。ちょっと盛り上がっているのに、私だけ置いて行かれる気がしてしまった。けれどこれはいい意味で裏切られた。
「はい、あ、相田さん。どうしたんですか? えっ、ストーリー作りを手伝って欲しい? はい、カフェ・シェリーでですね」
翌日、相田さんから電話がかかってきた。うぅん、今日はバイトが普通どおりのシフトだから、夕方遅くなっちゃうけど。でも頼りにされたら行かなきゃね。その旨を伝えて電話を切る。
「今の電話、男からでしょ。さとこさん、なんかウキウキしてるじゃない」
「日高さん、そんなんじゃないですよ」
日高さんがからかいにきた。でも私もまんざらなじゃない。
この日、私はバイトを上る前にちょっとだけ鏡を覗いた。うん、さとこいけてるじゃない。デートじゃないのになんだか心が弾んでいる。よし、行ってくるぞ。
カフェ・シェリーに着くと、相田さんはすでに着いて窓際の席に座っていた。私はその隣に座る。最初に会った時には一つ席を空けて座っていたのに。今日は隣。男性と二人っきりだなんて、ちょっとドキドキ。とはいっても、マスターやマイさんという監視役はいるけどね。早速マンガの第一話の打ち合わせに入った。
「…で、ここは今回の主人公にこう言わせてみようと思うんだけど」
「うぅん、それよりも表情で見せたほうがよくない?」
「そっか、マンガだからセリフじゃないほうがおもしろいかもなぁ」
こんな感じで意見を出しあって物語の大筋が決定。今までのマンガ友達は意見を押し付けるような感じで私にいろいろ言ってきたけれど。
相田さんは違う。一度私の言うことをきちんと受け止めてから自分の意見を言ってくれる。だからとても話がしやすい。この人とだったら男性に免疫のない私でもやってけるかも。
相田さん、決してイケメンではないけれど。でも、一緒にいるとなんだか温かい感じがするな。私の希望の光りかも。
その二日後、早々と相田さんの原作が完成。またもやカフェ・シェリーで会うことに。私は原作を早速読ませてもらった。
うん、なかなかおもしろい展開。けれどもう一つパンチが欲しい。
「ここはもう少し社労士をかっこよく見せられないかなぁ。でも、普段の生活はちょっと抜けているっていう感じで。ギャップを見せると読んでいる人も共感を呼びやすくなると思うんだけど」
読んだ感想を素直に伝えてみた。
「そうか、なるほど。社労士の個性を出すためにギャップを出すってのは面白いな」
相田さん、またまた私の意見を取り入れてくれた。なんだかうれしい。この部分についてはすぐに修正をしてくれて、私に原作が手渡された。よし、ここからは私の作業だぞ。まずはネームを仕上げなきゃ。
ありがたいことに、相田さんとの打ち合わせのときからおおまかなネームを作りながら会話ができたから。この作業は一日で完成。今度は私が相田さんとミサトさんに見せる番になった。ちょっとドキドキ。みんな、私の作品を受け入れてくれるかな。
この日、ミサトさんはちょっと抜けられない用事があるから、先に相田さんに見せておいて欲しいとのこと。またもや相田さんと二人で会うのか。
「なかなかいいと思うよ」
私のネームを見ての相田さんの感想。でも私は不満。ほめられたと言うよりも、きちんと私の作品に向き合っていない感じがしたから。だからついこんなふうに言ってしまった。
「相田さん、そういう曖昧な感想はいいの。どこがどういいのか、もっと工夫するところはないのか。そういうコメントが欲しいんですよ。ペン入れをしてしまったら修正するの大変なんですから」
ちょっと強く言い過ぎたかな。けれど相田さん、私のセリフを聞いてもう一度作品と向き合ってくれた。そしてこんな返事。
「そうだね…強いて言えばこのコマ、今回の主役がもっと悲壮な叫びをしている感じがもっと欲しいかな」
その他にも細かい点がいくつか出てきた。私はそれをメモする。さらには簡単なものはその場で描き直す。なるほど、そういう見せ方もあるのか。あらためて読者の視点に感心。
「相田さん、ありがとう」
うん、こういうパートナーが欲しかったのよ。今までのマンガ友達は、ただの意見の押し付けでしかなかった。けれど相田さんは明らかに違う。私の作品を見て、私という人間そのものに向き合ってくれる。
とても信頼出来る人だな。この人とだったらやっていけそう。
そんな感じでスタートした社労士シリーズ。物語をつくるということで、私は相田さんと頻繁に会うことになった。カフェ・シェリーが多いんだけど、私もアルバイトの時間があるからたまにバイト先のマンガコーナーで打ち合わせることもある。そうやっていくうちに、いつしか私は相田さんのことをけんくん、相田さんは私のことをさとこと呼び捨てにするようになった。
そんな感じで一年も過ぎ。私たちのマンガはインターネットを通じて徐々に広がりを見せた。最初は反応が悪かった出版社も、向こうの方から連載をお願いしてくるほどに。おかげで私たち三人の名前、特にマンガ家である私の名前は広く世間に広がることになった。
この頃から、私は妙にけんくんのことを意識し始めた。いや、今まで男性として見なかったけれど、私だってお年ごろ。一見すると優柔不断で私のいうことばかりを聴く草食系のけんくん。けれど、私のことを一番理解してくれる人。私の希望の星でもある。
連載を始めてからは隔週でマンガを描くようになって。アシスタントも一人雇うようになってから、無性にけんくんの顔が見たくなってきた。けれど、けんくんは原作の話しかしてくれない。なんだか寂しいな。
さらに私たちのマンガは盛り上がりを見せてきた。
けんくんとは仕事の話しかしていない。けれど、会うととても安心する。恋人じゃない。けれど大事な人。本当はけんくんともっと一緒にいたい。その気持がついけんくんとの会話に出てしまう。
もっと一緒にいたいから、ついけんくんには強い口調でいろいろなことを言ってしまう。いい加減私の気持に気づいてよ。そう思うんだけど。でも、二人の距離は私が思うほど縮まらない。あるところで足踏みしている感じ。けんくんが私の希望なんだから。もう、他の男に行っちゃうぞ。
そんな感じで最初に出会ってから三年の月日が流れようとしていた。けんくんも私も、作家先生と呼ばれる立場。ファンの集いなんかもあったりして、さらに忙しい。最近、カフェ・シェリーにも行けてないな。久しぶりにあそこのコーヒーを飲んでみたいけど。
そんな折、けんくんから食事の誘いがあった。最近は私の職場にしているマンションで打ち合わせることが多かったんだけど。今回はめずらしく外食だ。しかも、テイストジョイタウンのちょっとおしゃれなイタリアンレストラン。けんくんも収入が安定して、ちょっと羽振りがよくなってきたからな。
「けんくん、おまたせ。話って何?」
レストランに着くと、けんくんはいつもよりおしゃれな服を着て私を待っていた。
「さとこ…いや、さとこさん」
「どうしたの、あらたまって?」
「ぼくと…ぼくと…」
このとき、けんくんが何を言い出したいのかピンときた。やっと言ってくれる気になったのかな。私はちょっとイジワル。次のセリフが出てくるまで、けんくんの目をじっと見つめてその言葉を待つ。
けんくん、一度水を飲んで大きく深呼吸。そして…
「ぼくと結婚して下さい」
私はじっとけんくんの目を見つめたまま。けんくんも私の目をじっと見つめる。その間に、この三年間のことが次々と思い出された。
出会ったときのこと。連載が決まった時のこと。打ち合わせの日々。そして今。
「やっと言ってくれた。ずいぶん待たされちゃったな。けんくんからその言葉が来るの、ずっと待ってたんだから」
これが私の本音。
「じゃ、じゃぁ…」
「もちろん、オーケーよ。けんくん、こんな私だけどよろしくお願いします」
「や、やったぁぁぁ!」
けんくん、突然立ち上がって大きな声で叫んじゃった。お店の人たちが目を丸くする。
「あ、す、すいません。プロポーズが成功しちゃったもので」
その途端、お店のお客さん、そして店員さんたちからも大きな拍手が湧いてきた。
翌日、早速ミサトさんとカフェ・シェリーのマスター、舞衣さんに報告。
「おめでとう、さとこさん、相田くん」
ミサトさんからお祝いの言葉。
パァン!
「おめでとう!」
クラッカーの音とともに、マスターとマイさんも祝福してくれた。
「私たちがこうやってこれたのも、ミサトさんが私たちに種を蒔いてくれたお陰です。本当にありがとうございます」
希望の種。これを私たちに植えてくれたのはミサトさんであり、マスターやマイさんであり、そして眼の前にいるけんくん。その希望の種の芽を出し、しっかりと成長させ、実を結ばせる。それは私自身の役目。そのことをこれからも作品作りを通じて、多くの人に伝えていきたい。あらためてそう誓った。
マイさんからお祝いでもらったケーキをみんなで食べ、そしてシェリー・ブレンドを飲む。そこには希望の味がした。
これからまだまだ困難は湧いてくるだろう。けれど勇気を出してそこに立ち向かっていく。けんくんと二人三脚で。みさとさんとチームで。カフェシェリーの仲間とみんなで。
そして笑顔と希望に満ちた種をどんどん蒔いていかなくちゃね。
<希望を描く私 完>