あとはわたくしごとになりますが、逝去された橋本治さんについて、あとすこしだけ語らせてもらってもいいですか?
昨日書いたのは、本気で、ね。
本気で橋本治さんには、影響を受けていた。
あの人の、ものの考え方が好きだった。
というより、あの人に、ものの考え方を教えてもらったっていう方が正しいかもしれないくらい。
いや、これは、話盛ってるけど。
いや、いままで秘密にしてたけど、実は『私』は二人いるのですよ。
一人は、橋本治さんによってもっとも代表される『賢い』人のことが大好きで、自分も賢い人でありたい(あくまでも『ありたい』ね?そうである、とはいってませんので怒らないでね?)という『私』。
もう一人は、目の前の感動が一番大切だと信じ込んだバカでもいいから感動したいだけの、それだけを追い求める『私』。
これは、亡くなられた方に敬意を払って言っているのではなく、実はこれまで何度もあの人の凄さのことをこのエッセイ集でも書こうかどうか迷っていたほど、橋本治さんは私の好きな人だった。
考え方に影響を受けた、というのは本当に本当で、私のこれまでのくっだらない人生の中で、もっとも大きな救いのひとつは、橋本治さんの考えに触れられたことだし、亡くなられた直後だから鎮魂のために言うんじゃなくって、本当に、私がなりたい賢さというのを体現していたのが、橋本治さんだったのだ。
たぶん、ファン、とかではないと思う。
ファンって、ほかにいっぱいいらっしゃって、今回の逝去の報道を受けて、朝から仕事には手もつかず、あるいは会社なんて休んでしまって、ひとりの部屋では涙が止まらなくって、なんで死んじゃったんだよお、って悪態さえつく、そんなコアなファンの方があの人にはいっぱいいたんだろうな。
私は、そうではないようだ。
ただ、たぶん、私の考えの根っこにある知的な部分というのは、そのほとんど『知』に対する正しいのか、間違っているのかの、判断を下しているのは、橋本治的な考えをその基礎に置いていると思う。
だって、仕方ないじゃない?
どう、やっかんでも、ひねくれても、認めまいとしても、覆そうとしても、それができなかった正しい賢さだと、私自身がもう信じてしまっているのだから。
だから、私の考えは凄く極論に走りたがるんだ。
と、これは、私のせいではないんだ、と、亡くなられたあの人のせいにしたりする。むろん、それを聞きつけて、怒って生き返ってくれないかなぁ、という悲しい冗談だったりするんだけど。
あーあ。
やっぱり、落ち込むな、という方が、無理やよね?(ん?「やよね?」って、どこの方言だぅたっけ?京都弁で良かったっけ?)
あーあ。