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人波

作者: 森田 享

   人波



初めは、夜祭り見物に向かう人々の群れかと思った。

しかし、そのような楽しさや賑やかさは、どこにもないので休日ではなさそうだ。

次には、朝の通勤風景だと思った。

しかし、それとも、どこか違っている。その人々には活動的な感じや、やる気などが全くないようなのだ。

とにかく私も、その人々の流れに何となく乗っていた。たしかに、大人が職場へ向かうときの感覚がある。朝、目覚めて、睡眠時間は、まあ充分なのに疲れが全然とれていないな、という感じ。今日は朝飯も食べたくないし、そんな暇ないな、というあの感じ。

 そして私は、もう青年ではなくて、とっくに中年になっていて、働き続けるのが辛いだけだと思っている。学生時代に戻りたいという事だけが、そのときの願望になっている。私は半分、眠ったまま家を出たのだろうか。気づくとその道を歩いていて、自然とこの人々の流れの中にいたのだった。


 どこかへ向かって歩いているこの人々は、ほとんどが大人のようである。

同じような背格好の人間たちが不思議と、まあだいたい同じ方向を目指している。

若い人は、ほとんどいないようで、私くらいの中高年や初老の人が多い。緩慢な流れの中で、三十代から六十代くらいの男や女が無表情に歩いていた。見渡すと、みんな影のようにただ、ゆらゆらと揺れているだけのようでもある。

ふと、自分の歩いている道から、向こうの小高い丘の上へ視線を移すと、少年たちが楽しそうに走り回って遊んでいるのが見えた。その丘の近くを流れる小川の畔では、少女たちが無邪気に戯れている。道を歩いている人々は私を含めてみんな、その少年少女たちを見ても、ほんのわずかの童心に返る暇さえないらしく、河の水が絶えず流れて行くように、ある方角へと黙々と歩いている。


しばらく歩いて行くうちに、この道があるところよりも、かなり上の方に、もっと明るい道があることに私は気づいた。その高いところにある道でも、やはり大人たちが黙々と、ある方向へ同じように歩いてはいるのだが、私が歩いている道の人々よりは、いくらか颯爽と覇気のある感じではある。何か満足気な表情さえ浮かべて、納得して進んでいるようにも見えなくはないが、やはり濃い影を引きずりながら歩いていることには変わりないようだ。

また、私の歩くこの道よりも、ずっと低いところにも陽の当らない薄暗い道があって、そこではたくさんの気落ちしたような人々が、ほとんど彷徨っているのかと思うほどに、遅々として歩を進めている。その人々からは、自分の影の重さにさえ堪えられない、というような疲労と苦悩が見て取れる。

ただ、いずれの道を歩いているにしろ、みんなほぼ同じ方角へ歩いていることには変わりがなく、もはや仕事をするという事などは、どうでもよくなっているという心境も共通しているようだ。そして、こうして歩いて行くことも本当に、もうどうでもよくなってきている。


 私自身も、もう二度と働かなくていいな、と思っている。遊んだり、何かを愛したり、夢中になることも、もうないのだなと考えている。なんだ、もうこうして歩いて行かなくてもいいんじゃないのか、という疑問だけがある。

でも、先ほど目にした少年少女たちのためにも歩いて行かなければならないのかな、などと聖人みたいな綺麗事を考えて馬鹿らしくなってくる。誰のためであっても、これ以上は歩きたくないのだから、大人の私も、丘の風を感じながら休んだり、好きなだけ小川の水辺に佇んでいてもいいのではないか、と思う、これは他の人々も同じはずだ。


それでも人々の中には、不満を口にする人はなく、弱音を吐く人もいない。

お互いに少し体がぶつかったり触れ合っても、それだけ。偶然に視線を交わしても、それだけ。それぞれに自身の心を既に閉ざしてしまったかのように、お互いの気持が交わり合うことはなくなっている。誰かが立ち止まったり、よろめいて崩れ落ちても、助けようとする人もない。ちょっと手を差し伸べようか、というしぐさを見せる人がいるが、他人を助けながら、連れて歩いて行くなんてできそうもないから、そのまま黙って前へ進んで行く。

誰かが今の道を外れて、上の明るい道に這い上がろうとしていたり、下の暗い道の陰に潜んで行こうとしているのにも、みんな無関心で、この人々の大きな流れを滞らせないためだけに満身しているかのように、歩を進める姿は献身的ですらある。


百年くらい経っただろうか、やがて、道は地の果てのようなところに辿り着いた。

それでも人々は、そのまま歩いて行くしかない。後ろから、どんどん人が歩いて来るし、ここまで来て自分だけが立ち止まったり、向きを変え流れに逆らって引き返すことはとてもできないのだった。もしそんなことをすれば、強大な人間の壁に情け容赦なく押し倒されて、踏み潰されてしまうだけなのだ。

みんな無表情のまま、ただ人影が揺れているようにそのまま歩き続け、その道がそこで終わっていることにも心の動揺は表には見せない。すべての道は、ぷつりと無くなって、そのまま奈落の底に落ちているのに、ここに留まることは許されないから、そのまま前へ歩いて行く。

そうして人々は、その淵に辿り着いた人から順々に、すっと地の底へ落ちて行く。

一人また一人と、途絶えている道に向かって、何気なく最後の一歩を踏み出して、真っ逆さまに落ちて行く。机から物が転がり落ちるようだった。たまに奈落の淵で、躊躇する人がいると、わっと人々が渋滞して「おしくらまんじゅう」のようになって、淵から押し出されるように一度に何人かが落ちていった。

落ちて行く一人の一人の人間は、闇の中で桜の花びらが風に舞い散るかのように、ひらひらと遥か奈落の奥底へと落ちて消えてゆく。

次から次へ延々と、人々が押し寄せては、ただ脈々と淵から流れ落ちていくその光景を、遠くから眺めれば、人間を水の一滴とする巨大な滝そのものだった。


そのまま歩き続け、もうすぐで淵に辿り着くというときに私は、ふと視線を上げて地の果ての向こうの、遠い空を仰ぎ見ていた。

ほとんど錯覚のようではあったが、濃い雲の切れ間に、ほんの微かに別の地の果てが見えた。奈落の底から、その淵を這い上がり地の果てに立ち上がっていく人々の姿が、私の眼に映ったような気がした。それは、たぶん星よりも遠く、瞬くように見えたはずだ。

次の瞬間、途切れた道の先で、空を蹴った私の足。腰が軽く、しかし急激に落ちる感覚と、続いて頭の方から、強い力で下の暗闇へと吸い込まれていくような体感があった。

それらの記憶の全てが、いつどのように消えて無くなったのか、私には分からない――。






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