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夕焼けを灯す

 二階建ての屋根から、一日が終わるのを眺めていた。


 橙色を塗ったキャンバスの上から、ぽたりぽたりと水で少しだけ薄めた紅色を落としたような滲んだ夕日は、辺りの建物にもその色を映し出す。それはさながら映画館のホワイトスクリーンのようで、誇らしげに、しかし穏やかにたたずんでいるように見えた。ほぅ。とため息をこぼせば、それさえも暖かいその色に染まっていくようで、思わず目を細める。


 夕焼けに惚れていた。どんなに手を伸ばせど届くことのない距離に嫉妬し、自己嫌悪に陥り、しかしそれでもまた手を伸ばしてしまうほどに恋焦がれていたのだ。

もうじき夕日は沈みきり、暗闇に包まれるだろう。ぽつりぽつりと街に明かりがついてゆく中で、ふと住宅からではない明かりに気付き、そちらを見やった。

 そこには、先ほどまでうっとりと眺めていたものと同じ色を纏った明かりが、ガラスの箱の中でゆらゆらと揺らめいていた。それは、建てられて間もないガス灯の灯火であった。その揺らめきに思わず目を離せられなくなる。街頭の隅を照らし、連なるその姿はまるで、足を浮かせた橋のようでもあった。その明かりが途切れた先には、流行りにのったのだろうか。あまり似合わないザンギリ頭の半被を着た男が、細く長い竿を持ち、歩いていた。どうやらその男がガス灯に明かりを灯しているようだった。


 そのとき心に誓ったのだ。自分は立派な人間になり、この仕事に就くのだと。






 ぼおん ぼおん


 三畳半という狭い部屋に、それでもどっしり構える振り子時計が、重く響く音で時刻を知らせた。かなり年季が入ったそれは、この部屋の住人が壊れたからと知り合いにもらったものであったが、一度修理しただけでまた懸命に働いてくれている。

それまでただ黙々と本を読んでいたその男は、振り子時計の音を耳にすると、それまで読んでいた本を閉じ、のそりと立ち上がった。掛けてあった一枚の薄い半被を羽織ると、軋む階段を下りる。この家の大家でもある老人に一言だけ声を掛け、あちこち欠けてしまったがために動きの鈍い玄関の戸を半ば無理やり開いて、同じように閉めた。そしてちいさな家の裏に回り、さらにちいさな物置にひっそりとたてかけてある点火棒と呼ばれる竿を手に取る。


さて、ガス灯に火を灯す時間だ。


 からからと下駄を鳴らして、土で固められた道を歩く。大通りに出ると、ひとつめのガス灯に火をつけるために、長い竿の先でガラスの箱を開いた。蝶番がきぃ、となく。中に火をつけてやれば、夕焼けと同じ色をした明かりがガラスの中で滲んだ。

つけ始める頃はまだ昼が暮れ始めたばかりでも、街を一周もすれば日も沈みかける。一通り仕事が終わると、夕日がよく見える場所まで歩き、完全に沈みきるまで夕焼けを堪能する。とっぷりと日が暮れれば、自分が灯したガス灯の明かりを頼りに部屋に帰る。


 男の日常であり、幸せだった。






「おかえりなさい」


 その幸せな時間の余韻に浸るひと時を邪魔したのは、紛れもなく目の前にいる声の主、清水仄香であった。自分の部屋に帰ってきたのに、彼女を一目したとたん戸を締めたくなった。思わずため息がこぼれる。

「また来たのですか……」

「いいじゃない、仕事が終わればどうせ暇でしょう?」

「暇じゃありません、迷惑です。帰ってください。」

「言い過ぎじゃないかしら、せっかくここまで来てあげているというのに……」

「だからそれが迷惑だと何度言えば……ああ、貴女頭悪いですものね」

「ちょっと?!」

 自分の部屋に女が待っているといえば、大抵の男はうらやましがるだろうが、この男にとっては幸せな空間を邪魔する迷惑な存在でしかなかった。そもそも女は嫌いなのだ。人によって態度を変えるし、自分に都合が悪いことがおきても、泣けばすむと思っている。どうしてこんなことになってしまったのだろうと心の中だけで舌打ちをうった。






 四ヶ月ほど前のことである。雨が今にも降りそうな日だった。

普段なら早すぎるほどの時間であるにもかかわらず、その薄暗さから住宅の明かりがぽつぽつと付き始めていた。男はいつもどおりに仕事をしていたものの、その薄暗さと夕焼けが見えない寂しさに、少しばかり普段の冷静さを欠いていたかもしれなかった。

 どんよりとした雲を呆けたように眺め、着物が汚れるのも気にせずに、道の隅にひざを抱えて座っている女に声をかけてしまったのだ。そう、嫌いなはずの女に。


「もし、どうかされましたか」

 女は、まるで居眠りを起こされた子供のように男を一瞥し、寝ぼけたような表情で答えた。その女はどうやら今まで泣いていたようで、頬にかすかにではあるが涙の痕があった。

「どうかしたのかと問われればどうかしたのでしょうが、それが原因でここにいるのではないのかもしれないのです。」

 とんと訳のわからない答えに、男は今更ながらしまった、と舌を巻いた。もうすでに後の祭りである。

「実は草履の鼻緒が切れてしまって、途方にくれてしまっていたのです」

 女がどこか遠くを見つめている理由はそれだけではないように思えたが、面倒なことは早く終わらせてしまいたかった。

「それでは私がおぶって貴方の家までお連れしましょう。しかし申し訳ない、私にはまだ仕事がありますので、それまで私の背中に乗っていて下さいますか」

 女の表情に初めて色が着いた。もともとは表情がころころと変わる人物なのかもしれない。まさに一瞬で、無色から暗い藍色へと化した。驚きに目を見開き、おびえるように下唇を噛みしめる。

 男にとってはまさに予想外と言ったところで、今度はその表情に男が目を見開くところであった。

からかいのつもりではあったが、これなら相手も断るだろうと思っていたのだ。出合ったばかりの知らない人間におぶられて良い気持ちになる人間がいるというのか。ましてや、こんなみずぼらしい格好の男に仕事をつきあわされる等、自分であったらまさに断っていただろう。潔く断られて、家で本でも読みたい気分だった。

 しかしそれほどまでに怯えるものであろうか。男はいささか自尊心が傷ついたような気がした。しかし女の感情は、この男におぶられることとは別のところに向けられたもののようだった。

「……嫌です、どうかお願いします。今は帰りたくないのです」

 それを聞いた男は、これは自分に向けられたものではなかったのかと気付き、ひっそり胸を下ろした。反面、ああ、本当に面倒くさい人と関わってしまったようだとため息をつく。

しかし一度、しかも自分から関わってしまった相手がために、放っておくこともできず、

「ではこの仕事をひとまず終えてから、貴女の帰る場所の話をいたしましょう。広い背中ではありませんが、お乗りください」

 これで断ってくれないだろうか、と男は内心たくらんでいたが、哀しくも無残にその願いは崩れ落ちることとなった。

「わかりました、お願いします」

 実にあっさりと女は返答をよこした。人を疑うことを知らぬ純粋な瞳には、半ば諦めたような顔をした男が映っていた。


しかたなく彼女をおぶった。そして気付く。この女の着物は、見た目こそ装飾をしてはいないものの、素人にも分かるほどに上等な布で作られていた。

 そしてやはり、男の見た涙の痕は見間違いではなかったようで、首に回された袖の部分が少しばかり湿っていた。これ以上面倒なことに首を突っ込みたくないとばかりに、男はそのことについて口を出すことはなかった。


「あなたは何の仕事をしているのですか?」

 唐突に話しかけられた男は、手を動かしながら答える。

「街のガス灯に明かりをつけているのです。」

「がすとう……?これのことかしら」

 女は目の前のガラスの箱を見つけた。

「ええ。ほら、このように」

 男が目の前のガス灯に火を入れてやると、隣からほう。息が吹きかけられる。どうやら女がため息を零したようだった。

「綺麗な色……まるで夕焼けのような…………」

「……」

「こんなに綺麗なものを灯すのがお仕事なんて、あなたは幸せ物ですね」

 ふふ、と女が顔をほころばせた。

「……ええ、そうですとも。……夕焼けと一緒に見たなら、それはまたとても美しいものです」

「それなら今度、夕焼けとがすとうが一緒に見えるとこまで案内してくださいな」

「……それはまたどうしたものでしょうか」

 男は、この女とはここで別れればそれきりだろう。もうこれ以上関わることもあるまい。と考えていたのだが、女はそう思っていなかったらしい。男は言葉を濁したが、

「いいじゃありませんか。それとも迷惑かしら」

「とんでもない」

 男は内心、迷惑だ。と返事をしていたが、それが伝わるはずもなく。

「それなら来年の今日、一緒に見に行きましょう」

 誰かとであった記念日のようなものです。素敵でしょう? と女は笑ったが、男は、それほど長くまでの間、この面倒くさい女と関わらないといけないのかと目眩を感じていた。

「お名前をお聞きしてよろしいかしら」

 それは男の名前のことであったが、男はわざと勘違いした振りをして職業名を答えてやった。

「点灯夫にございます」


 その日からその男は彼女、清子にとって「点灯夫さん」という「奇妙な名前の人」と認識されたことを、男は知る由もない。






 結局あの日、男の仕事が終わっても帰りたくないとごね、挙句の果てに泣き出してしまった仄香をなだめて、大家の老人ににやにやされながらも、仕方なく自分の部屋に入れてやり、丑三つ時になってやっと落ち着いたのを見やって家まで送ったのだ。

だが、それからというもの、清子と言う女は週に2、3回ほど男の部屋へと上がりこみ、疲弊させているのであった。

しかも、来る度に帰りたくないのだとごねられ、やっと帰った翌日にも、大家から結婚話を持ち出され、男の顔には四ヶ月前には見なかった隈が、見て取れるほどになってしまっていた。






「僕は忙しいのです。帰ってください」

「仕事が終わったというのに?」

「読書に忙しいのです」

「私と本、どっちが大切なの?」

「本」

「答えるのが早すぎるのではないかしら?!」

 隣でぎゃいぎゃい騒がれるのは無視して、読みかけの本を開く。するととたんに部屋が静まり返り、響くのは男がページをめくる音だけになった。

仄香は本を読む男の姿に見とれていたのだが、男は拗ねたのだと勘違いをしたまま、気にせずに読書を続けた。はっと男に見とれていた清子が我にかえり、なんだか恥ずかしくなって少々早口ぎみに話しかける。

「本当に本が好きなのね」

 男は先ほどまでの清子の態度から、嫌味か。と思いながら生返事をする。

「……ええ、まあ」

 それはそうだ。点灯夫という低賃金な給料から、コツコツと貯めて作った金で買った本が嫌いなはずもない。小さな手作りの本棚に詰め込まれた数冊の本たちは、何度も何度も読み返したことで、一冊一冊、ひとページひとページが擦り切れていた。しかしそれでも丁寧に扱ったそれらはどこか誇らしげだった。

「どれぐらい好きなの」

 答えにくい質問をしてくる彼女を一瞥してやると、本を閉じ答える。

「死んでも手放したくないくらい……ですかね」

「ふーん。じゃあ本当に死んでしまったら、どうするの」

 この四ヶ月でわかったことは、この女には遠慮がない、ということだ。聞きにくいことも言いにくいことも、実にあっさりと悪気もなく言ってのける。

「……そうですね、そのときは亡骸と一緒に燃やしてもらいたいものです」

「私がもらってあげましょうか?」

 仄香は再びけろりと不謹慎なことを言ってみせた。自分で不謹慎なことを言っていると自覚はあるのだろうか。……いや、ないだろう。

「では一番大切な人にでも譲りましょうか」

「もちろん私よね?」

「……。そのお気楽で能天気な頭がうらやましいですね」

「それはどういう意味かしら?!」


 仄香が男の部屋に来るようになってから、男の顔に隈ができた。それと同様に、男の顔に笑顔が浮かぶ回数も増えていった。

本人は気付かなくとも、男の幸せの中には確かに、清子も存在していた。


 男の心には、今日も温かい火が灯される。






 それからまた数ヶ月ほど後の話である。

 その日もまた、あの日と同じように空が曇っており、夕日が大好きなあの男は目には見えねど、少しばかり落ち込んでいた。梅雨の季節が近づいてきている。そろそろ夕日を見ることのできる日のほうが少なくなってくるだろう。残念ではあるが、こればかりはどうすることもできない。

しかし良いこともあるのだ。清子はこの2、3週間の間、とんと姿を見せていなかった。どこか広く感じてしまう家の静寂を誤魔化すように本を開く。


 丁度そのときであった。玄関を無理やり開けた音がしたと思えば、ドタドタと騒がしい足音と共に、仄香が乱暴に部屋の戸を開けた。

「なんですか騒がしい。今から本を読むところだったのに」

 眉間にしわを寄せて睨みつけるも、相手の顔がいつもと違うことに気が付き、少しだけ目を見開く。あわてて飛び出してきたのだろうか、普段はとても美しく整えられている髪や服が乱れていた。

「どうしたので……!」

 今にも泣き出しそうな顔で近づいてくると、仄香は黙って男を抱きしめた。

「点灯夫さん、点灯夫さん、点灯夫さん」

 仄香は、か細く消え入りそうな声で点灯夫さん、と繰り返し唱え、白く細い腕で強く、強く抱きしめた。

夏が近づいてきているというのに、どうしてこんなにも心が寒いのか。少しでもぬくもりを求めてさらに必死に男を抱きしめる。

 突然抱きしめられた男は、戸惑いながらも自分とは全く違う、弱々しい背中に手を回し、そっと優しく抱きしめ返してやった。

少しでも仄香の心に、自分のこの心の灯火をうつしてやれたなら、と背中を撫でてやる。


 しばらくそうしていると、落ち着いたのか仄香から体を離した。それからまたしばらく俯いていたが、おもむろに顔を上げて、

「点灯夫さん、今夜ここに泊まらせてくれませんか」

 落ち着いたとはいえ、泣きそうな顔は完全には晴れず、悲しそうな瞳でそう言った。

「……」

 男が返答に困っていると、仄香がまた口を開く。

「朝になったらすぐに帰ります。今晩だけ、どうかお願いします」

 その顔は泣き出しそうというより、今にも死んでしまいそうで、男はそれに頷くことしかできなかった。






 点灯夫の朝は早い。朝日が昇るまでにガス灯の明かりを消さなければならないからだ。

ぼおんぼおんと鳴り響く振り子時計の音で目が覚める。昨日仄香に布団を譲り、机に突っ伏して寝たために、首の筋肉や関節が痛い。

しかしそんなことのために仕事に支障をきたすわけにはいかない。仄香がまだ深い眠りの中にいることを確認すると、重い腰をあげて階段を下り、玄関をできるだけ音を立てないように開いた。


するとそこには、まだこの時代には到底なじみのない黒スーツに身を包んだ男が立っていた。外はまだ薄暗かったが、これから明るくなるような予兆が見ある。にもかかわらず、点灯夫は背筋に冷たいものを感じ、一人身震いをする。

「はじめまして。仄香お嬢さんの護衛の日向でございます」

 護衛なんてつくほどまでのお嬢さんだったのか。日向と名乗る男は、体格から見ても、ただの点灯夫とはうって変わり、丸太のように太い腕と足をもっていた。その大きな体が深々とお辞儀をする。

そのあからさまなまでの丁寧な挨拶に、敬う心など感じるはずもなく。

「すみませんが私には仕事があるのです。話はそれからでもできるでしょう」

「いいえ、それは必要ありません。あなたの今日の分の仕事は、別の人間に頼みましたので」

 ただの点灯夫は目を見開いたが、日向と名乗る男はそれを気にした風もなく話を続けた。

「仄香お嬢様を引き取りにあがりました」

 こいつは人の家まで来て何様のつもりかと、かっとなって言い返す。

「それくらいのことならば、彼女だって自分で考えられるでしょう。それまでお引き取りください」

 すると大男は、その体格から小さく見える目をさらに細くして言った。

「自分が何を言っているのか分かっているのですか? あなたは嫁入り前の娘を自分の部屋に招きいれたのですよ」

「……嫁入り前?」


「そうです。仄香お嬢様は今日、お見合いをされるのです」


 頭をとんかちで殴られたようだった。脳みそがじんじんと痺れ、上手く機能してくれない。そうか、だから彼女は昨夜あんなに慌てて……。こころのどこか冷めた部分がそう呟いた。

それは同時に、何故自分のところなどへ来たのかという疑問も抱かせる。

「正直あなたは邪魔なのです。お嬢様はどうしてこんな男を……」

「それは、どういう意味でしょう」

「……まさか、気付いていないなんてことはないでしょう?」

「何のことだか僕にはさっぱり……」

 男の態度に、呆れたように日向はため息をついた。

「お嬢様があなたに恋愛感情を抱いていらっしゃる、ということです」

「……何かの冗談でしょう?」

「冗談で見合い話がある娘が、別の男の部屋に上がりこむと思いますか」

 言われた男は戸惑いながらも、本当は気付いていたのかもしれない。知りたくなかったというよりは、聞きたくなかったと感じた。

「あなただってお嬢様のことが好きなのでしょう?」

「ちが……」

「違わない」

 男の言葉をさえぎって否定すると、そのまま言葉を続けた。

「本当はあなただって気付いているはずだ、それに気付かないようにしているだけなのだ。違いますか?」

 やめてくれ、聞きたくない。男は耳を塞ぎたい気分だった。今まで触れないようにしていた感情が溢れ出す。と同時に、ああ、自分はあの人が好きなのだと実感させられた。


そうだ、あの日、初めて出会って、彼女がガス灯の明かりを夕焼けのようだと言ったあのときから僕は……。


「それにあなたは人間ではない。そもそも住む世界が違いすぎたのです」

 立派な護衛さんは何でもお知りのようだ。

朝の冷たい風が二人の男を撫ぜる。片方の男は涼しい顔をしていたが、もう片方の男からは明らかに動揺が見て取れた。

「何とか言ったらどうなのですか」

 それ以上その口を開かないでくれ。男の噛みしめた奥歯がぎぃと鳴いた。

「ねえ、烏さん」

「っ……!」

危うく涙が零れ落ちそうだった。それを必死にこらえ、ぐっと相手を見やる。しかしその相手はそれを気にした風もなく、ナイフのような突き刺さる言葉を続けた。

「図星のようだ。烏という生き物は頭が良いと聞くが、そうでもなかったか。あなたはお嬢様と結ばれて本当に幸せになれるとお思いか。それはまた、幸せな脳みそをしていらっしゃる」

 日向はそこでまたひとつため息をつくと、いままでより数段真剣なまなざしで男にとって一等残酷な言葉を告げた。


「お嬢様の前から消えていただけますか」


 嫌だと言えたらどんなに良かっただろう。今の男にはそんな勇気も、立場も、意地も、なにもなかった。


「…………ひとつだけ聞いてよろしいですか」

 人間の男の姿をした烏の声は掠れ、震えていた。

「なんでしょう」

「その見合い相手とは、どんなお方か」

「なんの、良い方ですよ。あなたとは違って、近所の方々とも仲良くしていらっしゃる。お人よしなのがたまに傷ですが」

 何故自分がそんなことを聞いたのか、男自身分かっていなかった。その見合い相手とやらがいっそのこと、極悪非道人であったならどんなによかっただろうとだけ心の隅で思った。

「……そう……ですか。それでは少し、時間をいただけないでしょうか。最後の挨拶をしたいのです」

「ええ、かまいませんとも」

いつの間にか日は昇り始め、雀のさえずりが聞こえだしていた。その声さえも、今の男には鬱陶しいことこの上なかった。






 部屋に戻れば、もうすでに起床した仄香がたたみ終わった布団の上で暇をもてあましていた。

「お帰りなさい。思っていたより遅かったわね」

「……帰ってください。もうここに用はないでしょぅ」

「……なにかあったの?」

「帰ってください、今すぐに」

 帰ってくれと言っているのに、どうにもそれが帰らないでくれ。どこにもいかないでくれと仄香には聞こえた。

「ねえ点灯夫さん、本当に何かあったんじゃ……」

 いつもとは明らかに様子がおかしい男の態度に、心配した仄香が言いながら男に近寄っていく。あと半尺ほどまで近づいたそのとき、突然肩にどすん、と重みを伴った衝撃を受けた。男の手のひらであった。

「点灯夫……さん?」

「……」

 男はただ黙って仄香の肩をつかみ、これ以上近づけないようにしていた。その手には必要以上の力は入っておらず、寧ろ仄香が傷つかないように労っているようにも思える。

「僕は……」

「?」


「僕は貴女を好きになってはいけないんだ」


 そういう男の顔は、切なさにか、哀しさにか、淋しさにか、眉間にしわを寄せて、今にも泣き出してしまいそうだ。

 仄香は、昨日とはまるで逆のようだと思った。それと同時に、この男を愛おしいと感じている自分もそこにいた。

「……点灯夫、さん」

 その愛おしい彼に手を伸ばす。こんな状況であるにもかかわらず、仄香の心は何故だか穏やかだった。しかし、伸ばした手は本人によって掴まれ、押し返されてしまった。

「お願いですから、帰ってください」

 僕では駄目なのです。あなたを幸せにできないのです。

 そんな思いを汲み取ったのか、仄香はどうしようもないもどかしさを感じながらも、その場を立ち去ることしかできなかった。去り際に一言だけ呟く。


「約束の日、待っていますから。ずっと、いつまでも」


 仄香は男がどこか遠くへ行ってしまうのを感じ取っていた。それと同時に、また戻ってきてくれるという確信があった。

「!!」

 男は思わず下唇を噛んだ。今の男には戻ってくる気はさらさらなかったというのに、この人は自分を信じて待ってくれているというのだから、自分はなんて残酷なのだろう。けれどもあの日の約束を覚えてくれていたことがどうにも悲しくて、苦しくて、嬉しかった。

 ぱたりと戸が閉まると同時に、男は泣き崩れた。






「お嬢様、お待ちしておりました」

 玄関を開けたとたんに目に移った人物から、なにもかも察してしまう。殴りつけてしまいたいほどの怒りがこみ上げてくるが、それをこらえて清子ははき捨てるように伝える。

「お見合いには行かないわ」

 すると予想通りの反応が返ってきた。

「どうしてです! あの男のせいですか!」

「違うわ、あの人はもうここには来ないでしょう」

「ならばなおさらどうして!」

 仄香は深く深呼吸して告げた。


「私が、あの人を待っていたいから。あの人が来るのを、信じているから」






 翌日、仄香が男の部屋に来てみると、案の定そこには誰もおらず、ただ主人を失った家具が昨日のまま寂しそうにしており、すべてを見ていたはずの振り子時計だけが、そ知らぬ顔で正確に働き続けていた。仄香は机上にあるひとつの置手紙に気付き、それを開く。


『いっとうはじめにこれを読んだ方に私の本を差し上げます。大切にしてください』


 その文章に、本当に彼はいなくなってしまったのだと今更ながら感じてしまう。何気なくその紙の裏を見ると、そこには彼らしからぬ急いた字で、


『どうかそれが貴女であったなら』


 と書かれていた。仄香は思わずその恋文を抱きしめる。

ああ、本当は行かないでほしかった! あの日々が続いてくれるだけでよかったのに!


 烏の哀しそうな鳴き声が、どこか遠くのほうで聞こえた気がした。






「やあ、久しぶりだな」

 一羽の烏に声が掛けられた。それもまた烏であったが、一方の烏は若く、もう一方の声を掛けた烏は、大分歳をくっていた。一つ一つの動作がゆったりとしていて、それがまた重々しく感じられる。

「お久しぶりです」

 声を掛けられたほうの烏は、少しばかり緊張した面持ちでそれを迎えた。

「そんなに固くならないでくれ。それより久しぶりに会ったのだから、もっと喜んだらどうなんだい」

 年老いた烏は冗談交じりにそう言うも、相手の強張った顔は拭いきれず、小さくため息をついた。

「最近、あんなに大好きな夕日を見に行かなくなったそうじゃないか。どうしたのだ?」

問いかけられた烏は言葉に詰まったのか、少しずつ体に溜まったものを吐き出すように答えた。

「夕日を見ていると、彼女を思い出して辛いのです。それをどうにもできない自分が、情けなくて、悔しいのです」

 年老いた烏は、そうか。と相槌はうったが、その切羽詰るような烏の様子を見て何かを察したようだった。と思えば、おかしそうに笑い出した。

「ふっふっふ……そうかそうか。夕日にしか興味のなかったお前がついに恋をしたか」

 うんうんと頷けば、相手の烏は困ったようにはにかんだ。

「やめてください。これは美談などではない」

「美談だって? 恋にそんなものは必要ない」

 そう言った烏はさも嬉しそうに笑った。

「会いに行ったらいいではないか、お前がまだ悩んでいるのだったら」

「しかし……彼女にはもう決まった相手がいます」

「そんなこと関係ない、かっさらってしまえばいい!」

はっはっは、と声を上げて笑う老烏に、若い烏がその言葉に苦笑した。老いた烏は続けて、

「それにその彼女とやらの思いはどうなる? ちゃんとその耳で聞いたのか? 本人から、本当の想いを」

 青二才の烏は目を伏せる。

「……けれど僕では、彼女を幸せにすることはできません」

「他人の幸せなんて、所詮他人にはわかるまい。本当にそれで幸せならそれでいいであろうが、そうじゃないとしたらどうする」

 その問いに答えられないでいると、それを察したのか

「他人に決められ、押し付けられた幸せなぞ要らぬよ。私がこれまで生きてきた中で学んだことのひとつだ」

 だから恐れず会いにゆけ、自分に正直なのが一番だ。その言葉を残して去って行った烏に、それでも前に進むことができない烏は、眩しそうに目を細める。

 いつかその一歩を踏み出すことはできるのだろうか。それはいつの話なのだろう。気が遠くなる。

 それでも、いつか決心がついたとき。もう少し心が成長したなら、会いに言ってもいいかもしれないなんて、いくらなんでも虫が良すぎたか。


 一羽の烏がカア、と鳴いた。






 夕刻、一人の女がガス灯のそばに座っていた。

着ている着物が汚れてしまうのも、人の目も気にせずに、どこか楽しげに、しかしどこか寂しげに、誰かを待っているように見えた。夕日が滲み、美しい夕焼けを作りあげる。女の着物も夕焼け色に染まっていく。

 あれからこの場所で待つのは何度目か、と指を折り数えてみると、片方の開いた手が拳になってしまった。その拳を強く握りしめてはまた夕焼けを眺める。手を伸ばすと、まるで夕焼けに溺れているようだ。

不意にその夕焼けに影が割って入る。誰かが夕焼けの明かりを遮っていた。しかしその誰かの顔は逆光で見えない。影が近づいてくる。そして、どうにかこうにか顔が見える位置まで来ると、女の伸ばされた手のひらに自分の手のひらを合わせこう告げた。


「もし、どうなさいましたか」








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