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空隙(偽の継承)

作者: 靜井系

an aperturean opening a gap - inheritance of Not Truth




桜はずっと続く温かさの後の強風に散らされて仕舞った。春何番、と言う程の強風で、ベランダのバケツが吹っ飛ばされて鉢の椿を直撃した。ぼっきりと折れはしなかったものの、新芽が伸びて来るかと言うこの時期にこれかとまだ内心冷や冷やしている。それでも一番花の遅い(故に芽の出る時期を大事にせねばならぬ)黒侘助に当たらなかったのは幸いと思う他ない、と泉は黒侘助の花がらを片付け乍ら思った。全ての鉢は大事ではあるが、黒侘助は手が掛かるのを含め特にだ。

花がらを拾う左手に目が行く。薬指には違和感を抱えた侭だ。上手く動かないが生来のものであった気がしない、古傷ではない傷跡を含めてだ。尤も、泉には此処数年の確たる記憶が無い。数年?…十数年。二十数年とも言えるかも知れない。生活には支障が無いので普段は気に上らせる事もしないが、日菜子を失った頃からの記憶の歯抜けが酷い。近年は特にだ、ずっぽり何年かの事を丸で覚えていないのだ。この間押し入れの整理をしていて、ゴルチェの青いサングラスが出て来たので、噫、とは思ったものの未だにそれが何なのか腑に落ちていない。自分のものであった記憶はある。掛けてみると、世界が色に染まった。…こんな色付きの世界をずっと見て来た様な気がする。だから覚えていないとは言えそれは泉にとても馴染んでいたが、それを掛けていた記憶がもう朧なのだ。尤も、最近の「仕事」にはそれを掛けて行く様にしている。何故かその方が通りが良いからだ。仕事とは言え、古びたアパートの住人や付近の「知った顔」(これとて何か、最近の話になると齟齬があるのだが)には、友人の事業の手伝いだと言い訳ている。本当の生業は他にある。芦崎から譲り受けた無銘と過ごして来た記憶は、確りとしている。無銘はだが、恐らくそろそろ千人かその位にはのぼろうかと言う仕事にはそろそろきつくなってきた。研師の追木にもそれは言われている。自分の歳をも考えると、退き時が近いのかも知れぬ。無銘は良く働いてくれた。泉と一番付き合いが長いのは、人よりも無銘だ。

ベランダの掃除をし、昼餉を作ろうかと腰を上げると携帯電話が鳴った。「魚」だ。スマートフォンに持ち替える気は今の所無いな、と電話なりメールなりが来る度に思い、それとて時流の常で否応無しにそうならざるを得ない時が来る事は勘付いていた。

「旦那か。サカナだ。…あー、近くに寄ったんで、今大丈夫か」

魚…坂名亮二は泉の裏の顔を知る、記憶を無くす前からの少ない知人の一人だ。情報を貰う事もある。時折こうして様子見の様な顔の出し方をする。それが果て昔からそうであったのか、近年からなのかは判然としない。

「ええ、昼飯を如何しようか考えていたところでしてね。貴方が良いのでしたらどっか…」

「俺はもう食った。じゃあもう一時間ばかり、旦那が済んだ頃合いで寄る」

そうですか、では、と泉が返答を返し切る前に電話は切れて仕舞った。魚は何時もこうだ。無駄な話はしない。歳の頃三十絡みかそれより下か、何れにせよ泉より大分年下であるのに、妙に覚めていて激昂する所等を見た事が無い。携帯を閉じ、ではその一時間で片付け迄済ませて仕舞おうと腰を再び上げた。

果たして魚は一時間と十五分で現れた。泉は朝の残り物に卵焼きを足したもので昼餉を済ませて仕舞っていたので、来訪には充分に間に合った。呼び鈴に玄関を開けると仏頂面とも能面とも取れぬ何時もの黒スーツに白いシャツの魚がおり、泉は常の通りまあどうぞと魚が上がり込むのを横目に見乍ら促した。魚は上がり框で一度背を向けるときっちりと革靴を揃え、暖簾を潜って、泉が何も言っていないのに定位置とも言える卓袱台の下座に胡座で腰を据えた。泉はそれを見遣り乍ら今日は風が非道かったでしょう等と世間話を振り乍ら茶を淹れているが、魚はああとかうんとかしか返答を返さなかった。これも常の事だ。

「桜がねえ、残念な事で。尤も温かかったので、ちいと早まっただけかも知れねえが」

と言い乍ら、菓子鉢代わりの陶器の皿にあられを載せて、煎茶と共に卓袱台の上に供した。魚は頷く程度頭を下げると湯飲みの上の方を持って、ふうと二度吹いてから茶を一口啜った。

「最近の仕事は?」

訊かれたので、盆を脇に置いて魚へ正対して正座し、答える。

「二月の終わりと、三月に一寸。…遣り方を変えてはいますが、大きい仕事となると、もうちいと骨ですね」

尤も、年金暮らしには未だ未だなので、請けられるもんなら何でも請けますがね、と泉も茶を啜り乍ら答える。魚はそれを一種無機質な目で眺めた後、湯飲みを置いた片手を卓袱台の上に置いた侭

「腹はどうもしねえか」

と問うて来た。泉は意味が判りかねた。

「いや?至ってこの所は…ああ、まあ花粉にはやられちゃあいますがね、他は何とも」

と言ってから自分の左手薬指にちらと目を遣った。そう言えば此処はどうにかなっている。魚はそれを見越した様に

「指もまあくっ付いただけかと思ってたが、仕事に支障ねえんだったら」

と言って湯飲みの上の方を持ってもう一度茶を啜った。支障はありませんよ、只動かすのとか感覚だとかが鈍いのは困りますけれども、と知ったふうで返したが、内心は言葉とは違っていた。

「何処迄ご存知なので」

何でも無いふうに放ってみたが、此処迄の齟齬を集約した問いだった。魚が外れか、針を逃れようと思えば幾らでも出来る。だから答えは余り期待していなかった。だが、魚は卓に置いた手を再び伸ばしてあられを摘み、口に放り込んだ後咀嚼してから

「恐らく、顛末だの後始末だのしたのは俺だけだろうからな」

と言ってまたあられを摘んだ。泉はそれに対し、やや固い声色で

「…ちょいちょい寄られるのは、それからで?」

魚は咀嚼して嚥下する間と、たっぷり三分かその辺り黙っていた。隠す積もりではないだろう。言葉を探しているか、タイミングを探しているかのどちらかだ。びょう、とベランダにまた強くなった風が吹いて、沈黙の間を埋めた。

「その後の事が気になってな。旦那が落ち着いたかどうか…仕事が出来るんだったら、支障ねえんだろうが」

「言い振りからすると俺ぁ相当尋常じゃなかったみたいに聞こえますが」

「腹を召しかけたんだからそりゃそうだろう。二三ヶ月はがっつり気がふれていた」

魚の言葉に思わず泉が腰を浮かせた。腹を召した?全く覚えが無い。気がふれた等以ての他だ。

「…じゃ、それは『未だ見てねえ』のか」

続く魚の言葉も全く埒外だった。びょうびょうと吹く風が、胸の隙間に吹いている様に聞こえた。未だ、見て、いない。そんな記憶は無い。毎日風呂を使っていると言うのにだ。今直ぐ開けて見てもみたい衝動に駆られたが、魚とは言え来客の前でそれは憚られた。代わりに、腰を落とし、膝の上の拳を固く握った。左手の指は一本、不自然に浮いた。

「もう半年以上になるか。電話掛けても応答が無いんで、寄ってみたら血溜まりに旦那と旦那の指が落ちてた。…大事にしないの、相当苦労したからな」

そう告げられても、無い記憶の事なので丸で他人事の様だ。が、落とした指と言うのはこの侭成らぬ一本の事であるらしい。大事にしなかったのは、第一発見者が魚であった事、それと、泉の掛かり付けの女医、大北佳代がそう言った裏事情を執り成して医療行為を行ってくれるからであったろうとは、推測が付いた。

「…しかし何んで割腹なぞせにゃならんのです。何か仕出かしたのですか」

魚はその小声の問いに、泉を見、自分の手元に目を落としを繰り返した。魚らしくない逡巡だ。

「        ・    を覚えているか」

「何と?」

魚は明瞭と発語した筈であるし、聞き取り難い訳でも無かったのにそこだけ音声が抜けた。

「        ・    。あんたの」

魚が繰り返した途端に泉は非道い吐き気と頭痛を覚えた。言葉が其所だけ相変わらず抜けているのにだ。知っている。自分は知っているのだ。押えた口の隙間から、それ以上言うな、とそら恐ろしい程に冷えた声が返したが、それは泉の意思ではなかった。それにも驚愕した。

「…それは、未だブラックボックスのまんまか」

魚は泉の様子を見て取ると、それ以上の言及を避けた。泉は何分か覚えても居ない程の沈黙を使って吐き気と頭痛を只管堪えていた。それだけで精一杯で、他の事に気が回らなかった。冷や汗ばかりが顔を伝った。魚はそれに横目をくれたのみで、黙っていた。漸漸納まって来た所で

「…それも覚えていねえし、言われたって他人事みてえだ。だけど、お世話を掛けました」

と、ぎこちなく魚へ頭を下げた。お世話を掛けた、で片付けられない惨事であった事は判っている。魚は東奔西走した事だろう。惨事が起きたのがこの部屋であるなら、近隣住民の反応が可笑しくない事を鑑みれば、文字通り綺麗に片付けた筈であったからだ。魚は何とも反応を返さなかった。

まことならず

「何ですって?」

大分時間を置いてから、只一言だけを返した。

「あるルートで俺の所へ回って来た。旦那の得物は相当歳だろう」

得物、とは無銘の事だ。そう言えば、刀身が大分限界が見えて来た様な事はついでに魚に言った事もあったかも知れない。…先の話からすれば、指を落としたのも腹を捌いたのも無銘であった筈だ。その事に思い至りこそすれ、どうやら核心を避けてくれたらしい事には内心感謝した。恐らく、今の泉には未だ相当な負担だ。

「まあ」

一旦咳払いを挟む。声が嗄れていた。

「まあ…そうです。ガタが来てると言うよりか、磨り減って細って来てね。刃物の運命です」

ちらと無銘の仕舞ってある押し入れに目を遣る。刀身が細くなる程に迄耐えた無銘の、作者はいづくんぞ知らん、相当の業前であった事が知れる。由来を芦崎は話さなかったので、結局詳細は闇の中だ。

「ぽっきりいってから換えたんじゃ支障が出るかと思った。旦那が好いなら、試しも兼ねてそれを」

渡す、と言う言葉を魚は省いた様だった。どうやら本日は様子見とその件を伝えに来たものであるらしい。代理刀は泉もそろそろ考え出していた所であったが、無銘に馴れ過ぎて、また無銘が良い働きをしたので、それに匹敵する実用性に富む逸品をとなると相当に難しい注文である事は懸念していた。

「マコトナラズと仰いましたか。…どのような」

冷や汗を拭き乍らちらりと問うてみる。魚は淡々と答えた。

「詳しいルートは多分訊かない方がいい。ドスっぽい白木造りだが…履き替えるのは、追木のおっさんとこでも出来るだろう」

魚はまたあられを摘み、茶で流し込んでから湯飲みを進めて、代わりを貰えるかと訊いて来たので、はいと答えて立つ。立つ時一瞬膝がぶれた。それを取り繕う様に歩を進めて、再び沸かした薬缶で新しく茶を淹れて戻った。魚は刀にはそう精通しているとも見えなかったが、魚に回って来ると言う事はそれ相応のもの、また、由来は言う通り訊かぬ方が良いものであろう事は知れた。泉にとっては使い前が違えど充分に役立つならそれで良い。だからゲンブツを見る迄は何とも訊かぬ事にしようと思っていた。

「まあ、履き替えれば少しは何とかなりますからね」

見ないと良く判りませんけれども、とは付け加えたが、恐らく泉の手に渡る事になるだろう。余程ものが粗悪品でなければだ。最低十年かそこいら使えるものであればこの際良悪を問うてはいられなかった。

「なら、今度」

魚は新しい茶を啜って簡潔にそれのみ返した。頻度から言えば二週間かそこいらでそのブツが届くと言う訳だ。実際試せるのは何時になるか判らない。無銘に頼った方が良い仕事で無ければ、と言う目算が付かなければ、二刀は持って行けなかったからだ。履き替えに掛かる時間を考えても一ヶ月以上は出番が無い。まあ、無銘はあと数年は保つ。魚は片手を卓上に置いた侭

「人斬りの一には、未だ現役で居て貰わなきゃ困るんだ」

その言葉を聞いて、視界の青が一瞬蘇る。そうだ、その景色を見ていた。

「そう」

その景色の中で俺は俺であった。自分の存在理由はずっと昔からそうだ、無銘を手にした瞬間から。他の理由は、無い。無いのだ。俺の本性は、それだ。

「そう…己は人斬り包丁であったのでした。それは確りと思い出さなきゃあ不可なかった。俺が何者であるかは…結局、其所なんです」

そう答えた泉は最早薄らと笑みさえたたえていた。人斬りの一。人斬りの犬。それが泉の正体だ。己の正体を知って、再認識して、もやもやと蟠っていた何かはすっと泉と重なって形に成った。此処からは最早ぶれまい。表の顔を如何し様が、他の道に如何にかし様が、戻って来る所は結局の所其所だ。其所で泉は一に成れる。確とした役割があり、為す。それ以上もそれ以下も無い。それだけだ。後にも先にも。

魚は感情の読み取れない目でそれを見ていたが、ん、と唸ると胡座を解いて腰を上げた。

「それじゃ、邪魔した。今度また」

中腰で茶を飲み干して仕舞うと、卓に湯飲みを置き、ごちそうさんと言い乍らふいと暖簾を潜って玄関へと向かう。見送ると言う程の事でも距離でもないが、玄関迄は追従した。

「先程のご迷惑の件ですが」

「ん?」

「…返せては居るんでしょうね。俺が人斬り包丁に成る事で」

仕事は殆ど全て魚を介していたからだ。何らかの見返り、中間マージンを魚が取っているであろう事は、いまの話を聞く以前から薄ら思っていた。魚はそれに対し、まあそれなりに、と答えたのみで深く言及を避けた。じゃ、と短く言い置くと玄関を潜って出て行った。泉は魚が階下へ降りて行くのを確認の様に見送ってから、玄関を閉め、鍵を掛けた。

まことならず…」

初めて聞くが、その様な気はしなかった。寧ろ手馴染んだ感触がした。無銘程長くは無いが、ある程度の現場を共にした感覚の、様な。ごうと風が吹いて、ベランダで何かが転げる音がした。それで、泉はまたか、と常の顔で呟いて、玄関を後にしベランダへ向かった。




---Apr.11.2014

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