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第六話

 さあ、そろそろお別れの時間だ。色男たる僕のラブストーリーは、まだまだ尽きることはないのだけれど、読者はもう飽きてきたところだろう。


 最後に相応しい話をしようか。


 落ちもなければ、何ら面白味もない、変哲な話。


 正しく僕という人間のそのものだ。


 ラストを飾るヒロインは、片桐鈴音という女である。僕の知識欲を満たすほどの雑学は持ち合わせていないし、絶世の美女というわけでもない。


 闇夜に溶け込んでしまうような黒髪。笑うと少しだけ出来るえくぼ。身長は僕よりもずっと小さくて、目を離せば見失ってしまう。いや、さすがにそれは冗談だが。


 何にしたって、どこにでもいそうな女。それが鈴音である。下手したらそこらへんに転がっているかもしれない。雑草のように地味で、石ころのように丸い性格で、メスの獣よりも女性的魅力がない――かもしれない。


 しかし、女に興味がない僕ではあるが、さすがにそんな何の取り柄もないやつと付き合うほど間抜けではない。彼女は誰にも負けない才能を持っていた。


 毛穴まで忠実に再現し、まるで生きているかのような表情をつくり、全人類が思わず目を見開くような表現力を用い、完璧なまでの人物画を描くことが出来るのだ。


 僕が彼女と出会ったのは二十歳を迎えた時。成人式を終えて、友人と飲み屋に行き、三軒目に突入しようかと、駅前で大勢の男たちと盛り上がっていた時であった。


 迷惑そうに僕らを見るサラリーマン。終電ギリギリまで愛を語り合っている恋人。段ボール集めに躍起になっている浮浪者。その中で一人、地べたに座って絵を描いている女の人がいた。一月の寒さに身を縮ませ、茶色い毛皮のコートを羽織り、座っていたのだ。


 木の葉のように密集したビル群。会社員の夜は長い。ビルから漏れる灯りは煌々としていて、繁華街のチープなネオンは街を色づけ、今が夜なのか朝なのかも判然としない状況。


 人は流れ、街は騒ぎ。朝は瞼をこすり、夜は背伸びをし。僕らは陽気に歌い、彼女は孤独を貫く。対立し、顔を背け、背を向ける。きっと僕と彼女も、本来であればそうするべきだったのかもしれない。だけれど、そうはしなかった。


 酒臭い集団から一人抜け、僕は彼女の元へと歩み寄る。右手にはスケッチブック。そして左手には鉛筆。地面に転がした消しゴムを時折ひろい、彼女は優しく紙を撫でる。


 再び鉛筆を持ち直し、針に糸を通すように慎重に手を動かす。彼女は震えていた。腕のみならず全身を揺らしながら、それでも懸命に何かを描こうとしている。


 とてもじゃないが、話しかけられるような雰囲気ではなかった。


 僕は静かに隣に腰かけて、横目で彼女のスケッチブックをのぞく。白と黒の世界。陰陽を使い分け、見事なまでに、目の前の景色を写し取っていた。


 彼女は思い出したかのように白い息を吐き、景色を眺める。まったく僕には気づいていない。それから数分後には唇をかすかに吊り上げ、勢いよく鉛筆を走らせる。


 しかし、それはわずかの時間。じきに彼女は、赤子を抱くように優しい手つきで黒い線を書いていく。出鱈目な線の連続。だが、魔法を使った。時には激しく、時には繊細に。


 それは寸分たがわず、指揮者のような腕捌きであった。


 彼女の生み出した直線と曲線がハミングし、思わずスタンディングオベーションしたくなる。確かにそれは、絶景とは程遠い、ただの夜の街である。


 しかし、現実性を帯びていながらも、どこか幻想的に見えるそのスケッチは、異彩を放っていた。長いため息をついた彼女。絵を描き終えた。


「すごいですね……感動しました」


 僕は立ち上がり、惜しみない拍手を彼女に送る。


「え……?」

「僕には絵心がないから、とても羨ましいです。あっ、いや、羨めるような身分ではありませんね。僕は本気で絵を描いたことなんてありませんし」


 すらすらと言葉が飛び出す僕に反して、彼女はひたすら困惑し、黙っている。


「ごめんなさい。いきなり話しかけちゃって。でも、本当の本当に、感動したんです。なにか一言を言わずにはいられなくて」


 背中のほうに置いていたリュックから、彼女は黒縁メガネを取り出す。


「あれ……? もしかして、目が悪いんですか?」

「ええ、まあ」


 僕は首を傾げてしまう。メガネをかけなければいけないほど目が悪いなら、いったいぜんたい、さっきまで何を見ていたのだろうか。


 いや、何を見て、何を感じて、この街の絵を描いていたのだろうか。


「ちょっとその絵、よく見せてもらってもいいですか」

「どうぞ」


 ビリっと一枚破いて手渡してきた。彼女はすっかり、震えがおさまっている。


「どこを見ても、まるっきり同じだ……」


 一切の違いがない。ためしに絵と景色を重ねて確認してみるが、やはり同じ。


「どうやって……?」


 彼女は視線を泳がせながら、力ない声で言った。


「あの……別に、私はこの夜景を参考にして描いていたわけではないので……」

「そ、そうなの?」

「はい。そんなに……驚くことでしょうか?」

「だって! 君! どこもかしこも、僕の目に見えるこの景色と同じじゃないか!」

「ですから……別に私は、似せようと思って書いたわけじゃ……」

「それなら、何を描こうと思ってたんですか?」


 寒さはどこへ行ったのやら。彼女の顔はすっかり、血色がよくなっていた。


「この街の景色が……私に訴えかけてきたので……」

「訴えかけてきた? なにを?」


 手を開いたり閉じたりして、彼女は言った。


「わかりません。でも、確かに、私には伝わりました。どこに何があって、空の色はどんな感じで――って、あっ、えっと、すいません。ちょっと、意味わからないですよね……」


 かなりの落差がある。絵を描いている時と、普通にしている時とでは。


「意味はよくわかりませんが、でも、何となくはわかります」

「えーっと、ですね……要するに、私は身体で感じたままに絵を描いたんです」

「それで、これ?」

「はい」


 芸術家とはやはり、人間離れした生き物なのだろう。普通の人間ではとうてい、理解できないようなことを感じているのだから。


 彼女は、遠巻きに聞こえるチンピラの怒声にうんざりしたような顔をする。メガネをクイっと上げて、それからリュックを背負って立ち上がる。


「それじゃあ、私はこれで」

「ああ、うん。さようなら」


 手を振ってみたけれど、彼女は決してこちらを振り返らなかった。


 その次の日から、僕は毎日のようにあの駅前に通った。もしかしたらまた、彼女に会えるかもしれないと思ったのだ。だが、夜になっても、早朝になっても、彼女は来ない。


 唯一の手がかりは、彼女に返し忘れたこの一枚の絵。


 しかしまあ、手がかりと言えるほど有力なものではなく、単なる紙切れに等しかった。これだけ素敵な絵なのに、役には立たない。


 なんだか無性に、芸術界の厳しさを実感したような気がした。


 次の日も、その次の日も、彼女はいない。一ヶ月、二か月、そして半年は過ぎた。もう二度と会えないと僕は思った。だけれど、意外な場所で再開を果たす。


 角は丸まり、所々鉛筆が消えてしまった絵を持って、僕が通う大学の美術サークルへと向かっていた時のことである。単純に、「この絵は凄いだろう?」と、サークルに所属する知人に自慢しようと思ったのだが、意外や意外、彼女はそこにいたのだ。


 誰もいない部屋で一人、丸椅子に座り、彼女の顔の何倍も大きな画用紙と睨めっこをしていた。手には鉛筆も筆も何も持っておらず、ただジーっと、白い紙を眺めている。


 絵具独特なあの、油っぽい匂いに鼻腔をくすぐられ、僕は昔を思い懐かしんでいると、彼女は不意にこちらを見た。しばしの間。


「あれ?」


 彼女は不思議そうな瞳で僕を捉える。僕は手に持っていたいつぞやの紙を掲げる。それでもすぐには気づかなかった。彼女は首を左右に傾げてから、言った。


「あっ! もしかして……あの時の……?」

「そう。あの時の」

「ええ……同じ大学だったんだ。知らなかった」


 同じ学び舎に籍を置いているとわかり、途端に親近感が芽生えたのだろう。彼女は初対面と違って妙に嬉しそうな顔で僕を見る。


「ずっと、探してたんだ」

「私のことを?」

「そう、君のことを」

「どうして?」

「なんだか……もう一回会いたくなって」


 わずかにえくぼが出来た。クレーターのようにゴツゴツしたものではなく、ほくろと見間違えてしまうような、えくぼだった。


「恥ずかしい。あんな絵を見せて、情けない限りよ」

「どうしてさ? あんなに素晴らしい絵は、君にしか描けないよ」

「ううん。私はね、人物画しか描けないの」

「それは嘘だよ。だって、あの時は、景色をちゃんと描いていたじゃないか」


 忘れ物を探すように机上を手で触れて、彼女は黒縁のメガネをかける。


「どうかした?」

「待って。動かないで」


 突然の命令だったので、僕の頭上には疑問符が浮かんでいたことだろう。


「なにさ」

「待って。そのまま。絶対にそのまま。あと一時間はそこで止まって」


 言われるがままに僕は停止する。彼女は近くにあったスケッチブックを急いで取る。名前の欄には明らかに男性の名前が記入されている。


「それ、君のじゃないよね?」

「いいの。そんなことより、極力しゃべらないで」

「う、うん」


 無言の空間はきっかりしっかり、一時間で崩れ落ちる。僕の全身を舐め回すような生温い視線は居心地が悪かったし、なおかつ、立ちっぱなしというのは非常に疲れる。


 しかし、スポーツ少年のような爽やかな笑みを浮かべる彼女を前にしたら、嫌味も疲れも全てを忘れてしまった。講義をサボった? それはどうでもいい。単位が取れないかも? そんなこともどうでもいいのだ。僕はただ、彼女の役に立てたなら、それでいい。


「僕をモデルにしたんだから、やっぱり、僕を描いてくれたの?」


 ふっと夢から醒めたように、彼女は虚ろな目をして僕に言った。


「ごめんなさい……私、また、暴走しちゃった……」

「いや、いいんだ。それよりさ、早速その絵を見せてくれないか?」


 まるで駄作を生み出してしまった作家のように、絶望を顔一杯に広げる彼女。


「はい……どうぞ……」

「うん。ありがとう」


 どこからどうみても、自画像だった。しかし、僕の自画像ではない。ではいったい、彼女は誰の自画像を描いたのかと言うと――驚くべきことに、彼女自身であった。


「どういうこと?」

「ご、ごめんなさい! 私……夢中になってたから、何も考えてなくて……」


 釈明会見を開いて欲しいわけではない。僕は、単に、理由が知りたかった。


「僕がモデルなのに、自分の自画像を描いた……これは、つまり?」


 言い訳という濁流に呑まれ、彼女の口からはああでもない、こうでもないと、さきほどから同じような謝罪が繰り返される。


「怒ってないよ。僕はね、興味を持った。どうして僕じゃなく、君自身を描いたのか」


 氾濫した川が落ち着くまでには、やはり、どうしても、時間がかかる。彼女は口を十分ほど閉ざしたまま。それでも僕は待ち続ける。いつもは自由気ままな僕が、誰かを待たせることが多いのだけれど、この時ばかりはそうではなかった。じれったいと思ったし、それに、日ごろの行いを改めようとも反省した。


「あなたの瞳に、私が映っていたから」


 ようやく出て来た言葉は、いまいち理解しかねるものであった。


「僕の瞳に、君が?」

「そう。あなたのその綺麗な瞳に、私が映っていたの」


 そんなことを言われると、妙に目玉が気になってしまう。僕は目をこすりながら、続きの言葉を待つことにした。


「私は美人じゃない。そんなことぐらい、わかってる。でもね……あなたの瞳の中に住んでいた私は、とても綺麗に見えた。自分なのに、自分じゃないみたいな……」

「なるほど。そういうことか」

「意味、わかる? 無理してわかったフリをしなくてもいい」

「まさか。僕はそこまで馬鹿じゃない。ただ……」

「ただ?」

「ナルキッソスの話を思い出してね。泉に映った自分の姿に魅せられて、実体のないあこがれを恋して、そして死んでしまう。少し似ているとは思わない?」


 半生を振り返るように、大学生とは思えない苦い顔をして、彼女は言った。


「それは……その危険性は、芸術家なら誰しもが抱えている問題だと思う」

「うん? つまり?」

「私の場合は絵だけど、その絵を描こうとすると、どうしても対象の本質を見極めようとしちゃう。でも、いざ本質を理解してしまうと、途端に芸術性は失われる。要するにね、どこまでも現実的になっちゃうの」

「現実的じゃあ、ダメなんだ?」

「小説とかなら、それでもいいと思う。けど、絵を描く場合は違う。どんなに忠実に描いたとしても、それじゃただの、真似事だから」

「まあ、言い換えれば、真似事なら誰にだって出来る。そういうことか」


 気まり悪そうに顔を顰めながら、彼女は視線を下にした。


「そう、なんだよね」

「だとしたら、人物画は違う? さっき君は、人物画なら描けるって言ったけど」

「それこそ、ナルキッソスの話と同じ。実体のないものに憧れるから。つまりね、人間の本質を見極めようとしても、そう簡単には出来ない。もう、不可能って言っても過言じゃない。そうすると、こうは思えない? 人間は、実体がないんじゃないかなって」

「実体がないと言うよりか、いまいち正体がつかめない。そんなところかもね」


 いずれにせよ、本質を理解できないのであれば、芸術性は損なわれない。何故なら現実性の介入が一切ないから。彼女はそういうことを言いたいのだろう。


 しかし、彼女にとっての芸術性は、別の誰かからしたら、芸術的だとは感じられないのかもしれない。だからきっと、答えはない。


 自分が素晴らしいと思えることに、全力を注げばいいのだろう。


「それにしても、本当にすごい絵だね、これ」


 難しい話ばかりをしていては息が詰まるので、僕はそれとなく話題を変える。彼女は垂れ下がった横髪を耳にかけて、小さく頷いた。


「自画像を称賛するのは、ちょっと気が引けるけど……でも、自信作」

「そっか。それは良かった。だけどさ、今度はちゃんと、僕を描いてね?」


 葉を伝って、泉に一粒の雫が落ちる。パーッと波紋が広がり、やがて静まる。彼女の笑顔はそういう光景を彷彿させるものであった。


 僕にも少しだけ、わかった気がする。彼女が人間を描くことにこだわっている理由が、少しだけ――

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