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第五話

 うつ病という単語は、最近やたらと耳にする機会が多いと思う。芸能人の誰々がうつ病だ。みたいな話は割とざらである。現代病の一つと言うが、うつ病にしろ拒食症にしろ何にしろ、それでは昔の人々はそういう類の病気とは一切無縁だったのかと、思ってしまう。


 いつだってそうだ。マスメディアが面白がって、妙なこじつけをして、そして誇張する。実にけしからんことである。


 まあ、難しい話は一先ず置いておこう。


 現代病があるなら、過去病は? 未来病は? などと食らいつくほど、僕は面倒な男ではない。残念ながら。


 だとしたら、いまから僕は何を話すのか。簡単に説明しよう。


 優子、銀と女を味わってきた僕だけれど、それでしばらく女には手を出さない、というわけではなかった。別に、いつだって僕から手を出すわけではないのだけれど。


 次に付き合った女は、精神的な悩みを多く抱えているやつだった。名はアリスと言う。いやいや、まさか本名ではあるまいよ。彼女は自分の名前にコンプレックスを抱えているようで、僕には決して本名を明かすことはなかった。


 出会った経緯は実にシンプル。


 いつもいつも、部屋に籠って本を読んでいる僕を心配した親戚が、いちど心療内科に行ってみてはどうかと言ってきたのだ。自分を精神異常者だとは思わないけれど、とりあえず僕は言われるがままにして、そしてその矢先でアリスと出会った。


 薄緑色のソファー。真っ白な壁。塵一つ見つからない床。神経質なまでに綺麗な待合室。そんな場所でアリスはソファーに腰をおろすことなく、立ちながら絵本を読んでいた。


 僕は受付で処理を済まし、なんとなく、そんなアリスを眺めていたのだ。メイド服を思わせるような、フリフリしたスカートは、妙に印象的であった。


 黄金に輝く頭の上に、ちょこんと乗せられたカチューシャ。それはまるで、薔薇のように鮮やかな赤色なのだけれど、アリスには華やかさがない。


 典型的な日本人顔に、金髪、カチューシャ、ふわっとしたスカート。言うまでもなく、ひどく不似合い。むしろ、和服が似合いそうな顔面。


「なにを読んでるの?」


 僕は不思議とアリスに興味が湧いたので、そう聞いてみた。ソファーに座る僕を一瞥し、そしてすぐに視線を逸らす。アリスは言った。


「不思議の国のアリス」


 もうわかっただろう。アリスという名前の由来は、この本からきているのだろう。


「君はその本が好きなのかい?」


 またこちらを一瞥して、瞬時に逸らす。


「私はこの本から出て来たの。アリスなの。だから好きとか嫌いとかじゃなくて、懐かしいから読んでるの」


「へえ。君はアリスで、だから故郷を懐かしんでいるわけだ」

「………」


 アリスは両手で持っていた本を上げる。半分ほど顔を隠したところで、水滴が滴るような声のトーンで言った。


「信じるの?」


 今度はしっかりと僕を捉えた瞳。よく見てみれば、青色のコンタクトをしていた。


「もちろん。僕は疑い深い人間じゃあないから」

「初めて」

「初めて? なにが?」

「私の話を真面目に聞いてくれた人、初めて」


 冗談であんなことを言ったつもりだけれど、どうやらアリスは本気にしてしまったらしい。僕は何ともいえない気分になった。


「私はアリス。あなたは?」


 本をパタンと閉じるアリス。僕の隣に腰かけて、鬱陶しいまでの視線を浴びせてくる。


「僕は四葉。よろしくね、アリス」

「四葉……四葉のクローバー……」

「うん?」

「あなたは今日からクローバー。よろしく、クローバー」


 本当に四葉のクローバーを見つけたように、アリスは幸せを噛み締めた表情を浮かべていた。僕はますます興味を持った。今までに出会ってきた人間より、何十倍も面白い。


 話をふくらませる意味もこめて、僕は持ち前のくだらない知識を披露する。


「クローバー。つまりは白詰草。アリスは白詰草の花言葉を知ってる?」


 小さく首を振るアリス。


「私のものになってください。そして、私のことを想ってください。だってさ」


 眩しい光を感じた。光源は僕の隣。ブルーで偽装した瞳を、遊園地のパレードのように輝かせ、そして呟いた。


「素敵……」

「そうかな? 四葉の葉の、一枚は名声を。一枚は富を。一枚は満ち足りた愛を。最後の一枚は健康を。それら四つの葉に願いがかけられ、この四枚が揃うと、真実の愛を表すんだよ。これでもまだ、素敵だって思える?」


 一等星はもう、そこにはなかった。力強く握られた拳。アリスは悲劇のヒロインのように、途轍もない絶望を抱えていたのだ。


「やだ……その話は、聞きたくない。さっきの話、もう一回して」

「まあ、そうだよね。僕もあまり、現実的な話は好きじゃない。名声とか富とか、やめてくれって感じさ」

「もう一回……」

「ん? ああ、さっきの話だっけ? 私のものになってください。そして、私のことを想ってください。これでいい?」

「私の目を見て、言って」


 アリスがヒロインであるとしたら、僕はさながらヒロインの恋人役といったところか。


「僕のものになってください。そして、僕のことを想ってください」


 サービス精神をいかんなく発揮し、僕は迫真の演技でそう言ってやった。すると、どうしたものか。ミルク色の肌は紅潮し、アリスの目尻はとろんと下がる。


「素敵……私、死ぬのかな」

「死ぬ? どうして?」

「こんなに幸せになったのは、初めて。あなたは本当に、四葉のクローバだったのね」


 アリスの言葉は、どこか遠くから聞こえるようであった。もしかしたら、アリスは本当にあのアリスなのかもしれない。僕は不意に、そう思った。


「私、あなたのことが、好きみたい」

「唐突だなぁ……僕と君は、まだ出会ったばかりだよ?」


 僕は困った顔を見せてはみたけれど、アリスはまったく動じない。


「私、あなたが好き」

「好きになってくれるのはかまわない。だけど、それ以上はまだ無理だよ」

「私は平気」

「僕が平気じゃない」

「どうして?」


 どうして。そう言われて僕は考える。好きになるのに理由など必要ない。それは確かに正論だ。いちいち理由を考えていては、お付き合いなんてできやしない。


 だとしたら、また、付き合うのに理由は必要なのだろうか。


 僕は考える。しかし、思いの外、結論はさっさと出てしまった。


「僕はね、面白い人が好きなんだ。見ていて、興味が湧いてくるような人が、好きだ」


 やはりアリスの頬は、まだ赤かった。


「じゃあ、私はどう?」

「そうだね……今までに出会ってきた人の中で、最高に面白い」


 嘘ではなかった。僕は本当に、心から、そう思ったのだ。しかしまあ、世間一般で言う好きとは、まったく別の感情であるのだろうけれど。


「私はあなたの虜になった。だから私は、あなたを虜にするの」

「随分と遠まわしな告白だね。そういうのは嫌いじゃないけど」


 熱い視線。重なる手。寄り添う肩。ふわりと甘い匂いが漂った。きっとこの匂いは、アリスの匂いなのだろうと僕は思った。


「荒井よし子さん。診察室へどうぞ」


 荒井よし子とは一体誰のことか。そう思って隣を見てみれば、そこには怖いぐらいに真顔になったアリスの姿が。


「………」

「………」


 おもむろに立ち上がるアリス。静かに診察室へと向かい、振り返り際にこう言ってきた。


「私の本名を知られたからには、もうあなたと会うことはできないの。さようなら」


 彼女はどうやら、不思議の国のアリスではなく、可笑しな頭のよし子であったらしい。


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