第四話
これは実につまらない話だ。僕の頭の中にある記憶の中でも、随一を誇るほど退屈な話。まあでも、落ちがないわけではないので、場合によっては「なるほど!」と、顔を綻ばせる人はいるのかもしれない。僕はそんな可能性の少ない希望に賭けてみようと思う。
さて、話を進めよう。
優子と別れてすぐに付き合った女の子で、名は銀と言う。なんとも古めかしい名前であるし、男みたいだとも思うけれど、銀は確かに現代人であったし、女である。
ある日のこと。僕はいよいよ両親から「出て行け」と言われ、親戚の家で寝泊まりするようになったのだけれど、銀が僕の家に遊びに行きたいと言ったので、それを了承した。
もちろん、本当の家にではなく、親戚の家に連れていった。学校が終わってすぐに僕の家へと行ったのだけれど、存外に話が盛り上がって、夕飯を家で一緒に食べることに。
ああ……どんな話をしたのかは、あまり覚えていない。
確か、歴代の小説の中でどれが最も優れているだとか、逆に史上最悪の駄作はなにかだとか、そういう話をしたと思う。
銀はコナン・ドイルの書いた『隠居絵具師』という作品を駄作とし、最高傑作とはまだ出会っていないと言っていたと思う。まあ、『隠居絵具師』が駄作かどうかはさておき。
とにもかくにも僕らは、夕飯の時間まで語り尽していた。
しかし、親戚のおばさんが、「ここで食べていきなさい」と言ったので、銀は申し訳なさそうにしながらも、僕らと夕食をともにした。
ここからが本題である。
銀は夕食を食べ終え、帰ろうとする。空はすっかり闇に覆われていたので、僕が当然のように「家まで送っていく」と言った。
気を遣ってのことなのか、銀はしきりに「いい」「大丈夫」と言う。面倒なので僕は、出来れば一人で帰って欲しいとは思っていた。しかし、そうもいかないのが世の中だ。
親戚のおばさんに背中を押され、僕はとにかく銀を送り届けることにしたのだ。
その道中は、実に他愛もない話をした。昨日は何があったとか、今日の授業でこんなことを教わったとか、将来はどうするとか、そういう話。
「四葉、悪いんだけど」と、もう銀の家の一歩手前までたどり着いたところで、銀は言う。「カバンを四葉の家に忘れちゃった」
「それなら、明日学校で渡そう」
「それじゃダメなの」
「どうしてさ?」
「明日までにやらなきゃいけない、宿題が入ってるから」
「それはいけない。僕が取りに帰るよ」
言って、僕は踵を返したのだけれど、銀は僕の後ろについてくる。理由を聞いてみると「四葉だけ行かせるのは悪いから」と言うのだ。
いやいや、冗談も大概にして欲しい。悪いと思うのなら、鼻から忘れ物をしなければいいではないか。まあ、決して口には出さないが、心の中で悪態をつく。
道中では、少しばかり深い話をしたと思う。
天国と地獄という概念があるけれど、死んだ人間がそのどちらかの世界にいくわけではない。つまるところ、この世そのものが地獄であり、あの世とはすなわち天国である。
とかなんとか。
高校生がいかにも考えそうなものだ。多感な時期にさしかかっているものだから、なにかと思う節があったのだろう。
それで、家に帰ってカバンを見つけると、僕らは再び銀の自宅を目指した。
「よかったね。これで明日、怒られずに済む」
「どうだろう。このままじゃ疲れて、寝ちゃいそう」
「そこは頑張ってくれよ。じゃないと、わざわざ取りに帰った意味がない」
「そうね。ごめんなさい。それからありがとう」
「いや、たいしたことはしてないから」
本当は、もう二度と忘れ物をするなよと僕は思った。これが歩いて五分の距離であれば、いくら面倒臭がりな僕といえど、嫌な気持ちはしなかった。しかし、聞いて呆れる。見て呆れる。歩いて呆れる。三十分も歩かなければいけないのだ。
これを三回も繰り返してみろ。合計で九十分である。一時間半である。月が綺麗な夜だけれど、「月が綺麗だね」と言うような気分ではない。
さあ、到着だ。「もう忘れ物はないね」と聞けば、銀は「あっ」と言った。
「ごめんなさい……携帯電話を忘れちゃった……」
乗りかかった船。僕の頭にそんな言葉がよぎる。どうせなら、もう、取りに帰ってしまおう。面倒を通り越し、僕はどこか達観したような気分であった。
道中では、互いの趣味について話をした。僕も銀も読書が好きだったので、これから活躍しそうな作家について、あれこれと語った。ミステリーはもうお腹いっぱいだから、たまには面白いコメディーを読みたいとかなんとか話をしたけれど、結局のところ結論は出なかった。家につき、再び銀の自宅を目指す。
「忘れ物はないね?」
「うん。もう、大丈夫」
僕は銀の言葉を信じた。と言うよりか、疲れていたので、疑う余裕さえなくなっていたのだ。この道中ではさすがに、言葉を交わすことはなかった。
「さあ、ついた。これで僕らはやっと眠れる」
「そうね。本当にごめんなさい。それじゃあ、また明日」
「うん。また明日」
二時間にわたるウォーキングは、これにて終了。
「あっ」
終了すると思ったのだけれど、銀は何かを思い出したかのように言った。嫌な予感がして僕は、恐る恐る振り返る。銀はどこか申し訳なさそうな顔をしていた。
まさかという思いが捨てきれず、僕は銀に問うた。
「忘れ物……?」
意外や意外、銀は首を横に振った。杞憂に終わったので、「じゃあ?」とさらに聞いてみると、銀はとんでもないことを言ったのだ。
「夕飯をご馳走してもらったのに、ありがとうって『言い忘れてた』」
なるほど確かに、忘れ物ではない。言うなれば、忘れ言とでも言えようか。
僕は無言で銀に別れを告げ、その後も関わり合いを持つことはなかった。何事も忘るべからず。みなもこの言葉を教訓として生きていくといい。