第三話
僕の初恋の相手は、とても初心な女の子であった。手を繋ぐだけで赤面し、抱き締めようものなら、その場でぶっ倒れてしまうぐらいだ。確かあの時の僕は、十六歳とかそこらで、彼女も同じぐらいであったと思う。名は相原優子と言う。
愛想の良い笑顔が特徴的で、きっと男から人気があるだろうと思っていた。しかし、僕が声をかけたというわけではなく、向こうから一方的に迫ってきたのだ。
初心とか言っておきながら、男に迫るのはどうかと思うけれど、まあ、初心であるからこそ、男を手籠めにする方法がわからず、僕に積極的にアプローチをしたのだろう。
既に親から見放されていた僕は、親戚の温情でどうにか高等学校に通うことができ、そして縁あって優子と付き合うことになった。親との縁は切れているが。
だけれど、もう知っての通り僕は、あまり女性に関心がない。言ってしまえば、なし崩し的にというか、なんとなくというか、いずれにせよ、適当な想いで付き合ったのだ。
優子はよく笑う女だった。
僕が適当に話をしても、優子の笑顔は絶えず荒波のように起こっては消える。なにがそんなに面白いのかはわからないが、それでも優子にとっては面白くて仕様がなかったのだろう。しかし、意外なことに、優子の笑顔は僕だけに向けられたものだった。
同じ学校に通っているとはいえ、クラスまで同じだったわけではない。だから、普段の優子がどうであるかを、一切知らなかった。
優子は僕の前だけで笑う。それを理解したのは、優子のクラスメイトの男子たちの立ち話を盗み聞きした時。「あいつ、気味が悪いよな」という発言に対し、「笑わないやつって、どうにも不気味に思える」と答える男。
その瞬間には、誰のことを言っているのかさっぱりわからない。しかし、もう少し聞き耳をたてていると、「でも、相原のやつ、彼氏がいるらしいぜ」と聞こえたので、どうやら優子のことを言っているらしいとわかった。
「相原でも、彼氏がいるのか」
「しかもよぉ、あいつ、その彼氏の前では滅茶苦茶に笑うらしいぜ」
「それ本当か? 想像できん」
「今度ちょっと、後をつけてみよう」
そこで会話は終了した。はて、もし本当に優子は笑わない女なのだとしたら、いったいぜんたいどうして僕に微笑みかけるのか。
僕はふと、思い返してみる。自然に頬がゆるんでしまったような笑顔。顔のパーツが崩落しそうなほどぐちゃぐちゃな笑顔。羞恥心のかけらもない、大口を開いて笑うあの顔。
どれをとっても、やはり、笑っている。
僕は無性に気になった。あの笑顔の裏には、純粋とはかけ離れた、なにかどす黒いものがあるのではないかとさえ、思った。
その日の放課後になって、一緒に帰宅している途中で、僕はふと優子の横顔を見る。かすかに口元がゆるんでいて、笑顔と真顔の中間のような表情であった。
あの男たちの話は、ところどころが誇張されていたに違いない。一度はそう思ってみたけれど、しかし、どうして誇張する必要があるのか。そう考えると、もはや、優子の笑顔には何か意味があるとしか思えない。
「君は普段、あまり笑わないらしいね」と、聞こうか聞くまいか思案していると、後方から数人の視線が感じられた。優子は気づいていないようだが、僕は気づいた。
出来るだけ自然の動作で振り返ると、得心のいかぬような顔をした男性生徒たちが視界に入る。数は三人。三人揃って、同じ表情。
「君の友達かい?」と、僕は優子に聞いてみる。「どういうこと?」と、優子は僕の視線を辿っていく。そしてすぐに、煙そうな表情をつくる。
「知らない。あんな人は、知らない」
「でも、さっきからずっと、君を見ては首を傾げているよ」
「あたしには関係ないわ。行きましょう」
僕の手をとって、優子は大股で歩みを進めてしまう。強引に引きずられるような形で僕は、後ろを振り返る。そこにはもう、男たちはいなかった。
明くる日も明くる日も、僕と優子は男たちに尾行された――ということはなく。あの日を最後にしてもう、後ろをくっついてまわられるようなことはなかった。
しかし、それにしても、いっこうに理由がわからない。どうして優子は僕に対してだけ微笑みかけるのか。僕を好きだから? まあ、それならそれでかまわない。
けれど、何かが隠されている。僕は根拠のない確信を持つ。
暖かい日だった。僕が優子に質問をしたあの日は、実に快適な天気であったと思う。綿菓子のような雲が浮かび、木陰で本を読んでいる老人がいて、思わずあくびをしてしまうほどであった。
「君はあまり、笑わないらしいね」
頑張って、頑張って、しかしそれでも堪え切れず、優子は顔を真っ赤にさせて笑った。
「なにがそんなに面白い? 僕にはよくわからない」
「いえ、いえいえ、面白いことなんて一つもないわ」
「でも君は、いま、笑っているだろう?」
「そうね。笑っているわ。でも、面白いわけじゃないの」
「不思議だね。面白くもないのに、君は笑うのかい?」
「ええ、その通り。あたしは面白くないことほど、笑ってしまう」
僕は疑問を禁じ得ず、頻りに首を傾げた。そして、そんな僕を見て優子はますます笑みを深くする。もう、猿のように顔がシワシワだ。
「もう少し詳しい話を聞かせてくれ」
「実は、あたしって、お葬式とか参拝とか、そういう大真面目な行事に限って、腹を抱えて笑ってしまう女なの。四葉君にはわかる?」
わかるはずがあるまい。お葬式のどこで笑える要素があるというのか。参拝のどこに腹を抱えて笑う要素があるというのか。わかるわけがない。
「正気か?」
「もちろん。あたしはいつだって正気。でもね、お坊さんがお経唱えて、それで木魚を叩いているでしょう? それが意味もなく笑えるの」
思い出したのか、どこか遠い目をしながら吹き出した優子。器用な女だ。感慨深そうに笑うのだから。
「お坊さんのあの声、あの低くてベースみたいな声、あれを聞いてしまうとわけもなく笑えて。だからあたしは、いつも大変なのよ」
「だろうね。下手したら殴られる。でも、君は学校にいる時は笑わないんだよね?」
「ええ、不思議ね。クラスの男子がすごく面白いことを言ってるのに、あたしの頬はピクリともしない。心では笑っているのよ? でも、顔には出ない」
「じゃあ……これだけは聞いておかなきゃ気が済まないんだけど、僕と一緒にいると、優子は決まって笑うだろう? それはどうして?」
優子は飛び切り級の笑顔になる。笑った拍子に、僕の顔に唾をかけるぐらいだ。優子は言った。
「下らないこと、それからつまらないこと。あとはどうでもいいこと。こういう場面に出くわすとあたしは、笑ってしまうの。つまりね――」
僕は最後まで聞かずに立ち去った。もう、言われなくてもわかる。
要するに、僕の話はくだらないしつまらないしどうでもいい。そういうことが言いたかったのだろう。まあ、それはさして気にしない。もとより僕は、自分の話に面白味がないことなど知っている。しかし、あれはいけない。あの話だけはまずい。
『実は、あたしって、お葬式とか――』
今の理論で考えれば、優子にとって誰かの死とは、くだらなくて、つまらなくて、どうでもいい。そういうことだろう。生憎ながら僕は、そういう人並み外れた感性を持ち合わせている女とは、辻褄が合わない。恐らく、それは僕だけではないのだろうけれど。
後から聞いた話。
優子は二十歳で結婚し、なかなかに男前な旦那さんと幸せな生活を送っていたらしい。しかし、その翌年に旦那が死んだ。おまけに、優子のお腹には子供がいたらしい。
だけれど、旦那のお葬式で優子は、やはり、一人でニヤニヤとしていたとかなんとか。まわりの人々は、夫に先立たれて気が狂ってしまったと思った。
結局、流産してしまった優子であったが、その時も優子は涙を零すどころか笑っていたらしい。まあ、頭がおかしいと言えばそれまでだけれど、どうにも僕にはそう思えなかった。
僕が大人になってから、考えたのだけれど。
優子は確かに、面白いから笑うのではなく、面白くないから笑うのだと言っていた。これを深読みしてみれば、面白くないのなら、笑うしかあるまい。優子はそう考えていたのではないかと、僕は思うのである。
夫が死に、どうしようもなく面白くないから、笑って誤魔化した。赤子が死に、どうしようもなく悲しいから笑って誤魔化した。こう考えれば、なんだか優子が不憫に思えてならないでもない。まあ、なんにしたって、僕の話がつまらないから、優子は笑って自分を騙していたことには変わらないのだろうが。
なんだかなあ。