果てしない
息を吸い込むと今までに嗅いだことのない匂いが身体に満ちた。
目の前に広がる水面は太陽の光を反射してキラキラとしている。心地よい音は少しだけ不定期なリズムで寄せては返していく。
「これが、海」
思わずつぶやけば、隣に立つ長身の男が「そうだよ」と返してくる。
「名前に『海』ってついてるのに。本当に見たことなかったんだね」
馬鹿にするでもなく、驚いたという感情が乗っているわけでもない声。ただ、事実を軽い口調で述べているだけ。
「海にくる必要なんてなかったから」
私がいたのは薄暗く狭い場所で。そんな場所だけが私が生きることを許されていると思っていた場所。
こんなに明るく広い場所は私に必要なかった。
「そう。まぁ、必要に迫られて来る場所でもないんじゃないかな?」
「そうなの?」
隣で腕を組む男を見上げる。男がかけているサングラスも水面のように光を反射して、その奥の瞳は見えない。
「好きで来るんじゃない?オレは来ないけど」
「海、嫌いなの?」
私の質問に真っ直ぐに水平線に向かっていた顔が、こちらを見た。
「どっちだと思う?」
口の端を少しだけ上げて私に質問を返してきた。
「分からないから聞いている」
幾分か、苛立ちを覚えてぶっきらぼうに返せば「ごめんごめん」と心の込もっていない謝罪が返ってきた。
私が苛立ったことが楽しかったのか、ククッと喉の奥で笑う男に余計苛立つ。
「嫌いだよ」
短い回答。サングラスの奥の瞳はわからないが、口だけは笑っているように見える。「嫌い」という言葉には合わない表情。
「どうして?」
好き嫌いに理由なんてないのかもしれない。けれど、反射的に聞いてしまった。
「どうしてだろうね?」
また質問で返されて終わりかと思ったが、男の口は再び開いた。
「終わりがない感じがするからかな?」
そう答えた男の口から笑の形が消えた。見上げる顔から心の奥底は覗けない。サングラスの奥を見れば覗けるだろうか。
ゆっくりと手を伸ばし、男のサングラスを外す。私がするがまま男はなんの抵抗もしなかった。
閉じられていた瞼が開き、左右で色の違う瞳が私に据えられる。
よく見えるという男の右目の瞼に指を這わせた。
「あぁ、こうすると終わりが感じられるから、いいね」
私の姿すらきっと見えていない状況で、なぜだか楽しそうに話す男。
「君だけを感じる」
こんな広い場所で、私だけ。
「私は『終わり』なの?」
言葉にすることで悲しくなる思い。
「そうだよ。オレにとっての『終わり』は君だ」
優しい声と共に近づく男の顔。瞼を閉じて触れ合うぬくもりを待った。
甘いぬくもりが触れた刹那、海風が強く吹き身体が揺れる。
同時に感じる、男の香り。先程まで感じていた潮の香りが消え、私の身体に男の香りが満ちた。
私にとっても、この人は『終わり』なのだ。
そう感じると、何故か幸せに思えた。