夜が明ければ。
日が沈み、鐘が一つなった頃、大きな樫の木の下。
そこは僕たちだけの世界だ。
僕たちだけの世界だった。
「……明日、本当に」
僕がなんとかそれだけ言えば、彼女はにっこりと笑った。
「ええ、行くわ」
「……そっか」
夜の間だけ、僕たちはいろんなことから解放された。
煩わしい作法からも、騒々しい世間からも、そして、自分たちの立場からも。
僕はこの国の宰相の長男で、彼女はお姫様。
幼馴染ではあったけれど、僕たちが自由に話せるのはここでだけだった。
この夜が明けてしまえば——彼女は、隣国へと嫁ぐ。
それは彼女が生まれるより前から、両国の和平のために約束されていたことだった。
幼い彼女が納得出来るはずもなく、ここにくる度に、嫌だ嫌だと泣いていた。
僕は彼女が泣くとどうしていいか分からなくて、あたふたとそれを慰めた。
そうしていつも、彼女は最後に、
「その時になったら、私をさらってね」
と言った。僕の返す言葉も、いつも同じだった。
「分かったよ」
それが変わってしまったのは、いつだっただろうか。
彼女が当の相手と顔合わせして、しばらくした頃だったと思う。
彼女は、もう「さらって」とは言わなくなった。
代わりに、その男の名を出しては、何々をしてもらっただとか、何々をくれただとか、そんな話をした。
街の吟遊詩人は歌う。政略結婚のはずの王子と姫は、いつしか心惹かれあい、愛し合っているのだと。
そう、彼女は男に恋をしていた。
僕が「分かったよ」と言う必要は、もうないのだ。
「……寂しくなるよ」
「……そうね、私も。
貴方とこうして話せるのは、これが最後になるかもしれないのね」
彼女は表情を暗くしたが、その瞳には明日の幸せを待ち望む色が見え隠れしていた。
「寂しい、よ」
僕がもう一度そう言っても、彼女はええ、と同意しただけで、その色を消すことはなかった。
だって彼女は、愛する男の元に嫁ぐ彼女は今、幸せなのだから。
「僕のこと、忘れないでね」
「勿論よ……貴方は私のこと、」
「忘れないよ」
彼女は悲しそうに、ただ微笑んだ。
きっと彼女は、忘れてくれと言おうとしたのだろう。私のことなど忘れて、他の人と、と。そう言おうとしたのだろう。
でも、たとえ彼女の頼みでも、僕はもう分かったとは言わない。言えない。
僕の、愛する人を見送らねばいけない僕の……ささやかな抵抗だった。
夜が明ければ、彼女は行く。
行かないで、なんて言うことは出来ない。
そんなことを言えば、泣き虫の彼女はきっと泣いてしまうから。
彼女が泣くと……僕はどうしていいか分からないから。
「幸せになって」
「ええ、なるわ」
明日の夜には、もう彼女はいない。
僕たちだけの世界であるはずのこの場所は、僕だけの世界になる。
夜が明ければ、君は行く。
夜が明ければ——僕は。
逆お気に入りユーザー記念の短編でした。
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