第三十二章 氷姫がくれたもの(後) 参
「疾風様っ!」
「霞殿?」
森にいた疾風が倒木に座り、護身刀をぼんやり眺めていると、霞がやってきた。いったいどうしたのかと、刀を腰に差して立ち上がる。
彼女はどこか焦った様子で口早に告げた。
「風見ヶ丘の村娘と仲間達が、山吹に来ています」
「雪姫達が?」
疾風は目を丸くした。
「どうやら疾風様のお命を、恩賞にするつもりのようです。先ほど、緑助様がお許しになられました。村娘がこちらに向かっています」
「僕の、命を──?」
疾風も雪姫が恩賞を受けることになっているのは知っていた。山吹には宮中の情報がすぐに回ってくるため、疾風だけでなく村中の人間がそれを把握済みであった。
はっとし、疾風は猛然と振り返った。雪姫の考えを察したのである。
「お待ちくださいっ!」
走り出そうとした少年を、霞の悲鳴にも似た叫び声が引き留めた。
彼女は胸の上で拳を握り、切に訴える。
「お願いです。どうか行かないでください!」
「霞殿……」
普段の様子と違い、切迫していた。振り向いた姿のまま面食らっている疾風に、霞が畳みかける。
「私は、疾風様のことをずっとお慕いしていました。初めてお会いした時から、ずっと! ですからお願いです。あの村娘のところになんて、行かないでください。村から出て行ったりしないでください。この村に、私のそばに、いてほしいんです!」
疾風は静かに息を呑んだ。しかし、すぐに口を引き結んで表情を改め、霞の方に向き直る。
「ありがとう、霞殿。気持ちは嬉しい。でも、ごめん。君の想いには、応えることができない」
「………………」
霞は痛みを堪えるように顔を俯かせ、唇を噛んだ。
なぜ断られたのか、理由など尋ねなくともわかる。彼は、風見ヶ丘の村娘を好いているのだ。
その片鱗は確かにあった。ゆえに、こうなることがずっと恐ろしかった。
霞は身体の横で固く握った拳を震わせ、「では一つ、お聞かせください」と苦しげに声を絞り出す。
「もし、その小刀を差し上げたのが私であったら……疾風様のお命を救ったのがあの村娘ではなく、私であったとしたら、答えは変わっていましたか?」
疾風は否と首を振り、
「もしそうだったとしても、変わらないと思う」
顔を上げ、宙に視線を泳がせた。
「たしかに雪姫には命を救われた。でも、それが理由じゃないんだ。僕は、素直で一生懸命で、優しい雪姫だから好きになった。臆病だし、抜けているところもあるけれど、そういうところも全部ひっくるめて。だからきっと、答えは変わらない」
疾風は一片の迷いもなく言い切った。
少し間があり、
「そう、ですか……」
霞の身体から強ばりが解けてゆく。面を上げ、再び疾風と向き合うと、精一杯微笑んでみせた。
「わかりました。ここまではっきり振られてしまったら、私もあきらめがつきます。お引き留めして申し訳ございませんでした。さぁ、どうぞお進みください」
「ありがとう、霞殿」
疾風は、最後にしっかりと頭を下げてそう言い残すと、走り去った。
今のありがとうは、果たして好意に対してのお礼か。解放したことについてのお礼か。あるいは、その両方だったのか。
遠ざかる少年の後ろ姿が、涙で滲んでゆく。
「う、うぅっ」
霞は俯き、嗚咽を漏らした。
近くの木立から人影が現れる。
「霞……」
それは幼馴染みの少年、椎奈であった。
彼は霞の前までやってくると、手を伸ばして彼女の頭を胸に引き寄せ、黙って泣き顔を隠してやるのであった。
森には、人の足で踏み均された一本道が通っていた。
木漏れ日の落ちる道を、雪姫が駆け足で進んでいる。首の後ろでひとつに結わいた長い髪をなびかせ、ちらちらと瞬くように、射し込む光を受けながら地を蹴り続ける。
すると道の向こうからも人がやって来た。まさか、と雪姫の期待が膨らむ。
少しずつその人影が大きくなり、やがて認識できるまでになる。
柔らかそうな亜麻色の短い髪、桔梗色の衣、銀鼠の袴。
間違いない。やはりそれは、雪姫が求めていた人であった。
「疾風!」
「雪姫!」
名を呼ぶと、向こうも同じように少女の名を呼ばわった。
二人の距離が次第に近付いてゆく。最後は、ぶつかるようにして抱き締め合った。衝撃と共に再会を果たした両者は、互いに駆けていた時の勢いを殺しきれず、ぐるりと大きく回ってしまう。
疾風が少女の肩口に顔を埋め、「雪姫……」と切なげな声で背に回した腕に力を込めた。
抱き締めている。抱き締められている。
雪姫は呼吸を整えて、少年の胸元から顔を上げた。