第三十二章 氷姫がくれたもの(後) 弐
「これは……」
「帝からの恩賞に関する証書と、三国からの嘆願書です」
どちらも間違いなく本物であった。印を見れば簡単にわかる。
「私は帝から、疾風の命をもらうつもりでいます。帝に彼が生きていたことを打ち明け、今の生を認めてもらうことができれば、本当の意味で自由になれはずです。疾風には、堂々と自由に生きてもらいたい……それが私の本当の願いであり、望みです」
緑助は押し黙った。
雪姫が恩賞を受けることになったのは知っていたが、まさかこう出てくるとは。それも、周辺国の嘆願書が付くことで外堀を埋めた形になる。彼女の望みは、ほぼ間違いなく通るといってよかった。
嘆願書は幼夢、早智乃、氷室からの私的なものであり朝廷を通した公的なものではなかったが、三国の次期権力者達が連名でそれぞれ捺印しているのである。効力としては十分であった。
もしかすると手元にまだないだけで、公的な方にも手が回っているのかもしれない。
緑助は、ふっと口許を緩めて俯いた。
その背中が丸まり、肩が小刻みに揺れだす。急にどうしたのかと雪姫がたじろいだ次の瞬間、
「────っはっはっはっはっはっはっはっ!」
彼は弾かれたように顔を上げ、身体を反らせて痛快な笑い声を放った。
「ろ、緑助様?」
雪姫は目をぱちくりとさせた。目的を阻んだはずであるのに、彼は悔しがったり憤ったりせずに、晴れ晴れとした様子で哄笑している。
「はっはっはっ! いやいやいや、なるほど。こうきましたか! ええ、たしかに。これならば、私も手を引かねばなりますまい!」
疾風を恩賞にされてしまえば、緑助にはもう抵抗のしようがない。完全な敗北である。忍びの頭領は、してやられたと額に手を当てて、なおも笑い続けた。
ひとしきり笑ったあと、
「よいでしょう」
緑助が、にこやかに深く頷いた。雪姫の胸に期待が膨らむ。
「では──!」
「ええ。あなたの意向に従いましょう。さぁ、どうぞ疾風様を迎えに行って差し上げてください。今日はあちらの森に出かけております」
「やった!」
「雪姫っ!」
幼夢と早智乃がこちらに振り返って歓喜した。二人から手をぎゅっと握られる。
「それと、今日はうちの村に泊まってゆかれるとよいでしょう。疾風様のご友人として、みなさんを歓迎いたしますぞ!」
緑助は目許にくしゃっと皺を作り、笑顔で言った。今度こそ、本当に雪姫達を歓迎しているのである。
「だそうですよ?」
ふふと笑い、満足そうな顔で粋が雪姫を見やる。
佳月も破顔し、
「俺達はここで待ってるから、行ってこい!」
「ええ。二人の感動の再会を邪魔するのは、気が引けますし」
それにのった早智乃が肩を竦め、いたずらっぽく片目を瞑ってみせる。
幼夢も満面の笑みで雪姫を急かした。
「ほらほら、雪姫。早く行って疾風を連れてきなよ!」
「ええ!」
皆から背中を押され、雪姫は懐に書類をしまうと緑助達に「ありがとうございます!」と頭を下げ、走りだした。
その後ろ姿を眺めながら、緑助は眩しいものでも見るかのように目を細めた。
(強く、なられましたな)
雪姫は疾風を救っただけでなく、間接的に緑助のことも救っていたのである。
縛られていたのは、この老人も同じであった。疾風を守るため、「現在の帝よりも彼の方がその座に相応しいから」という理由を付けて一族を動かしていたが、途中で流れを止めることができなくなっていた。
疾風が亡くなったことになり、命が狙われる心配は消えても、一族の帝に対する謀反への流れは止まらない。どうせ国をひっくり返してしまえば、民に対して疾風が生きていた理由などいくらでも弁解できてしまうのである。ゆえに緑助は起こす必要のなくなった謀反を進め続けなければならないという、苦しい状況に立たされていた。事実、その準備は非常に際どい段階にまで進んでいた。
ところが、こうして力業で疾風に手出しできないようにされてしまえば、もう諦める他ない。
さらには他国までもが睨みを利かせているのである。こうなってしまえば、一族も計画の断念を認めざるを得ないであろう。
「……救われたな」
「ああ」
草助の呟きに、緑助は素直に頷いて返した。
横目で二人の会話を聞いていた藤太も、その口許を嬉しそうに綻ばせていた。