第三十一章 氷姫がくれたもの(前) 伍
睫毛が小さく震え、瞼がうっすらと開く。
雪姫が目覚めると、仲間達に囲まれていた。
「よかったぁ、気付いたのね!」
幼夢の肩から、一気に力が抜け落ちる。覗き込んでいた他の者の顔にも、安堵の色が広がった。
雪姫はぼんやりとした頭で上体を起こした。そのまま軽く辺りを見回す。
緑の畳、雲母刷の襖、床の間に掛けられた山水画。そして何より、縁側から見える庭には見覚えがあった。どうやらここは、西側の部屋のようである。
「いつまでたっても戻ってこないから、心配したのよ? 見つけたはいいけど、気を失ってるし……」
雪姫は、はっとした。
「そうだわ、疾風っ!」
「ちょっと、雪姫っ?」
幼夢の言葉もそっちのけで少女は縁側に飛び出した。
ダンッと、勢いのまま板敷きの床を強く踏み込んだ、その先────
庭は、しんとしていた。
日も沈みかけており、辺りは薄暗くなっている。そこには、もの淋しげな空気が横たわっているだけであった。
(行って……しまったんだ……)
放心したように佇んでいると、後ろから尋ねられた。
「いったい何があったんです?」
「それに、疾風と草助って人はどうしたんだ?」
早智乃と佳月である。
振り返ると、皆が雪姫を追ってぞろぞろと縁側に出てくるところであった。全員が一様に気遣わしげな表情を浮かべている。
雪姫は目を伏せ、静かに首を振った。
「もうお屋敷にはいないわ。それどころか、霜白にもいないと思う」
「どういうことですか?」
粋が顔を曇らせる。
「疾風は期限付きで私達に協力してくれていたんですって。それで、草助さんが迎えに来たみたい」
一度そこで言葉を切り、困ったように弱々しく笑んだ。
「いくらなんでも、急すぎるわよね。みんなにも、氷室様にも告げずに行ってしまうなんて……」
結局、笑みの形を維持できずに表情が沈んでゆく。雪姫は足元に視線を落とし、黙った。
黒光りする床に、ひどくぼやけた自身の姿が映った。その朧気な様子は、消沈した心までも映したかのように頼りない。
「でも、それならどうして気を失っていたんです?」
「それは……」
早智乃からの問いかけに、再び顔を上げる。
どう説明すべきか。雪姫が迷っているうちに、幼夢が驚くべきことを口にした。
「もしかして、疾風が若草の皇子であることと関係していたりする?」
「えっ──?」
雪姫の目が丸くなる。
その様子から、幼夢は確信を得たようであった。
「実はね、私達全員 疾風が何者なのか……すでに知ってるんだ。雪姫が一葉様に拐われたことがあったでしょ? あの時、氷室様が雪姫を迎えに行ってくれている間にね、疾風が雪姫との関係を語るのに自分のことも話してくれたの」
幼夢はここで軽く息を吸い、労るように眉を下げる。
「私は、雪姫に疾風の話を少しだけ聞かせてもらっていたから、薄々勘づいてはいたけど……やっぱりそうだったんだなって、納得したわ」
すべてを明かし終えた少女は表情を改め、雪姫の目をしっかりと捉えた。
「疾風は、若草の皇子だったんだね。そして──迎えにきた草助さんは、忍びの一族だった」
「その通りよ」
雪姫は重々しく頷いた。
「疾風は、草助さんが来て動揺こそしていたけれど、予想も覚悟もしていたみたい。私なんて、ほとんど一方的に別れを告げられる形で、最後に当て身を受けて気を失ったの。疾風は、もう会えないと言っていたわ。でも、理由を教えてはもらえなかった。たぶんそれは、忍びの思惑に関係しているからだと思う」
「そっ、か……」
幼夢の口から吐息と共に神妙な声がこぼれる。
彼女はそれきり黙り込んだ。疾風が抱えていたものを知り、思い詰めたように唇を引き結ぶ。他の皆も同じであった。
縁側に沈黙が訪れる。
(疾風は未だ、多くのものに縛られているんだわ……)
雪姫は、ぼんやりと宙を仰いで彼に思いを馳せた。
疾風は自由になったのだと思っていた。あらゆる柵から解放されたのだと思っていた。けれども、実際には違っていたのだ。
先ほどの疾風の顔が脳裏にちらつく。彼は本当に辛そうな顔をしていた。
このままでよいはずがない。終われるはずがない。ならばもう、答えは決まっていた。
「……決めた。私、追いかける」
皆の意識がこちらに注がれる。雪姫は拳を作り、胸に置いてさらに告げた。
「このまま風見ヶ丘になんて、帰れない。疾風に会いたい。あんなお別れ、納得いかない。それに、彼には堂々と自由に生きていてほしいから。だから私……疾風のこと、あきらめない。絶対に取り戻してみせる」
瞳に灯った光は、語る間もその熱量をどんどん増していった。決意は揺らがない。
雪姫は、この旅であきらめない強さを手に入れたのである。欲しいものは、己の手で掴み取らなければ。
「雪姫……」
その呟きは、果たして誰のものであったか。やがて幼夢達は互いに目配せしあって頷いた。
「なら、私達も付き合わせてもらうわよ」
「わたくし達に黙って出ていったんですもの。疾風には文句の一つでも言ってやりませんと!」
「こんな風に突然消えられたりしたら、後味悪すぎだもんな。このまま旅を終わりになんて、できっこないって!」
「はい! 追いかけて、何としても取り返しましょう! 疾風さんは僕達にとっても大切な人なんですから、当然です」
幼夢が、早智乃が、佳月が、粋が。希望を漲らせ、力強く笑む。
雪姫は内側で感情が膨れ上がるのを感じた。
たちまち喉元にまで込み上げてきたそれを、声に乗せて解き放つ。めいいっぱい両手と両腕を広げ、勢いに任せて皆に抱きついた。
「みんな……! ありがとうっ!」
雪姫達の旅は、あともう少しだけ続くのであった。