第三十一章 氷姫がくれたもの(前) 弐
……う……ううっ
わたしは……いったい…………
「氷之神様!」
雪姫は疾風に手を引いてもらい、苦しそうに呻く神のもとへ戻る。
今なら届けられるかもしれなかった。好機を逃すまいと、食らいつく思いで叫ぶ。
「氷之神様! 深冬様の真実を届けに参りました! どうか、聞いてください!」
みふゆの……しん、じつ……だと……?
今度は通じた。深冬と聞いて、雪姫に関心が寄せられる。
向こうから歩み寄ってくれたのである。あとはもう、己の言葉で説明するだけであった。
「はい、そうです! 深冬様は──!」
氷之神が神の次元へ帰っている間に、深冬が人間と恋に落ちたこと。
結婚して氷姫が生まれたこと。
夫が病で亡くなったこと。
深冬も、氷姫に霊力を譲ることで人間に近い身となり、夫と共に永遠の眠りについたこと。
娘である氷姫が、氷之神にそれを伝えようとしていたこと。
氷姫に代わり、雪姫がその役目を果たしに来たこと。
話を聞いている間、氷之神は暴れる己の力に飲み込まれないよう、懸命に抗ってくれた。
雪姫がすべて伝え終えると、
──そうか
そうで、あった、か……
みふゆは にんげんとして “し”をえらび、このよにはもう いないのだな……
しんみりとした声が、頭上から降り落ちる。
どうやら真相を受け止め、納得してくれたようであった。氷之神の発していた輝きが徐々に弱まり、まろやかなものに変じてゆく。吹雪もそれに伴い、凪いでいった。
厚かった雲もみるみるうちに薄れ、一筋二筋と、続けてあちこちの切れ間から陽が差す。
空が晴れ、澄んだ薄青色が広がった。
氷之神が平静を取り戻した。完全に鎮まったのである。
ひとのこよ、そして みふゆのむすめよ
せわをかけた……
上空から、ゆっくりと滑るようにして高度を落とし、氷之神が雪姫と疾風の前に降りてきた。
わたしは もう だいじょうぶだ
しずめてくれたこと かんしゃする
しかし、しょうきを うしなっていたとはいえ、おおくのものを きずつけてしまった……
ゆえに かみのくにへ かえることにしよう
かのばしょから、いのっている
このくにが、ひとが、いつまでも あんねいでいられるように、と……
「氷之神様……」
さらばだ
穏やかな声を最後に、氷之神が景色に溶けてゆく。
──終わったのだ。
氷之神は鎮まり、神の次元へと帰った。もう二度と白き闇が降りることも、大寒気がくることも、ない。
危機は去ったのである。
雪姫と疾風は山頂に立ち尽くしたまま、氷之神のいた場所を見つめていた。
「…………終わった……の、よね?」
ぽつり、と少女が言の葉を落とす。
「うん」
「私達、氷之神様を鎮めることが……できたのよね?」
実感が湧かず、確認したくなってしまった。隣の少年を見ると、
「うん」
疾風もこちらを向いて、目許を緩めて。もう一度、しっかりした声で頷いた。
「雪姫が真実を届けてくれたから……みんなの力が、ひとつになったから、やり遂げることができたんだ」
「力がひとつに……ええ、そうね。疾風に氷姫に幼夢達、それから氷室様に清晏先生、村の大巫女様。それに、霜白神宮の人達や一葉様だって……」
他にも雪姫が知らないだけで、氷之神が鎮まるようにと祈りを捧げてくれた人だって、たくさんいたはずである。そのすべての人達に感謝を捧げたくなる。
「あ……」
すると、疾風が何かに気付いた。
「ねぇ、雪姫。見て」
「え? ……わぁっ!」
頂上から望む、季節外れの雪景色。
二人の足が、自然と崖側に寄ってゆく。
多くの人達と協力して守りきった世界が、眼下に広がっていた。
どこまでも続く白い大地が、陽の光を受けて明るく輝いている。
折れた木々が突き刺さっていたり、建物の破片が散乱していたりと、痛々しい傷痕もたくさん見受けられたが、それでも世界は美しかった。
「気がつかなかったわ。こんなにいい眺めだったなんて」
「たったさっきまで、それどころじゃなかったからね」
疾風が肩を竦めて、いたずらっぽい口調で言うので雪姫も笑ってしまった。
「ふふっ、そうね」
こんな冗談が言えるのも、生きているからこそであった。少しでも歯車が狂えば、霜白ごと凍り漬けにされる運命を迎えていたはずである。
本当にすべて終わったのだと、ここにきてようやく実感が追い付いた。
景色を眺めながら雪姫が感慨に耽っていると、
「おーい!」
「雪姫ーっ! 疾風ーっ!」
遠くで誰かに呼ばれた気がした。
辺りを見回すが、特に人の気配は感じられない。しかし、すぐに下方からであると思い至り、膝をついて崖下を覗くと、手を振りながら坂道を駆け登ってくる幼夢達の姿が見えた。
「みんな!」
どうやら、迎えにきてくれたようである。雪姫が落ちない程度に縁から身を乗り出し、満面の笑みで大きく手を振っていると、不意に氷姫の思いが伝わってきた。
── ありがとう ──
(あ…………)
首に下げていた勾玉が、先端から少しずつ崩れだす。さらさらと優しい光に変わり、天に昇ってゆく。
最後に残ったのは、首に掛けていた紐だけ。雪姫は目を閉じ、胸元でそれをぎゅっと握りしめた。
(私も。私もよ、氷姫。ありがとう。そして──)
さようなら。
おやすみなさい。