第三十一章 氷姫がくれたもの(前) 壱
氷之神は己の内側から噴き出す強大な力に翻弄され、完全に我を失っていた。
もう自身が何者で、どこで何をしているのかさえわからない。意識のない今、彼はただ力を放出し続けるだけの災厄と化していた。
そんな無に溶けてしまったはずの意識に、ある波動が働きかける。
笛と鈴の音が運ぶ、清浄で穏やかな波動。幼夢達による舞と祝詞の鎮めの力が、仄かな光となって氷之神の闇に差し込んだ。
まるで眠りから覚めかけた時のように、氷之神の意識が、ほんの僅かにもたげる。
しかし、鎮めの力はあまりにも小さく、これだけでは彼の暴走は収まらない。
僅かに覗いた意識も、嵐の如く荒れ狂った力の奔流に押され、虚しくも飲み込まれてしまうのであった。
──霜白の山、山頂付近。
頂上に向かってジグザグと折り返しながら設けられた坂道を、雪姫と疾風が進んでいた。
幼夢達はすでに鎮めの儀式に取りかかっており、遠くから笛の音が聞こえている。木立の影になってしまって姿はもう見えないが、こうして存在を感じることはできた。
離れていても、一緒に戦っているのである。皆も頑張っているのだから、雪姫だって負けてはいられなかった。
自身の務めを果たすべく、上を目指す。この道さえ登りきれば、山頂であった。
しかし、登りだしてからしばらくすると、再び雪と氷の世界がはじまった。どうやら、結界の効果の範囲外に出たらしい。この地点を境に、氷の群晶が道を塞ぎ、吹雪も容赦がなくなる。
氷之神に近づいているだけあって、その威力は絶大であった。あまりの風圧に、進むどころか立っていることすら厳しくなる。
目も開けてはいられない。呼吸もままならない。人の身では、とても進めそうになかった。
「お願い、氷姫っ!」
必死に受け身を取っていた雪姫であったが、ついに叫んだ。
助けを求めると、少女の胸元から淡い虹色の光があふれれだし、羽織の中にしまっておいた勾玉が、ひとりでに浮かびあがる。雪姫の首にかかったまま目の前で大きく瞬き、二人は光に飲まれた。
次に目を開いた時。吹雪の影響は、著しく減少していた。抵抗するために入れていた力が突然行き場をなくし、転びそうになってしまったほどである。
「これは……結界?」
「ええ。そうみたい」
すごいな、と疾風が感心の声を漏らし、辺りを見回した。
雪姫の請願に応え、氷姫が手助けをしてくれたようである。結界は勾玉を中心に、二人が十分に行動できるほどの範囲に展開されていた。
「問題は、道を塞いでいる氷の群晶だね」
疾風が行く手を見やる。
しかし、そちらについてもすぐ解決した。
勾玉が浮いたままの状態でゆっくり明滅すると、群晶が内側から破裂するようにして、次々と砕け散っていったのである。
まるで、火薬の連鎖反応を見ているようであった。あっという間に障害が取り払われる。
「わぁっ……! ありがとう、これで前に進むことができるわ!」
「助かったよ、氷姫」
二人が勾玉に語りかけると、小さく光って応えてくれた。
「恩に着る。僕も、絶対に雪姫を氷之神様のところまで送り届けるから。──さぁ行こう、雪姫!」
「ええ!」
少女は力強く頷き、疾風と共に歩きだす。
氷姫にここまでしてもらったのだ。期待に応えねばならない。
あとはもう、順調であった。二人はひたすら前進し、山頂との距離を詰めてゆく。登るに連れ、道はだんだんと狭まっていった。
坂道が終わり、登りきると拓けた場所に出た。
ついに、頂上に到着したのである。
吹雪のせいで、すべてが煙って見えた。その中で、氷之神の輝きだけが、はっきりと上空に感じられる。
一息ついている暇などなかった。本当の勝負は、ここからなのである。
荒ぶる氷之神の力は凄まじく、氷姫の結界をもってしても吹き飛ばされそうになる。雪姫は疾風に支えてもらいながら、勾玉を握りしめて氷之神に訴えかけた。
「氷之神様! あなたにお伝えしたいことがあるのです! どうか、聞いてください!」
しかし、雪姫が声を大にして叫んでも、話を聞いてもらうどころか、注意を引くことすらできない。
「氷之神様!」
それでも、あきらめるわけにはいかなかった。
もう一度叫ぶと、手の内で勾玉が輝き、波動が生じて周囲の空間ごと氷之神を包み込む。
霊力を持たない雪姫であっても、清らかでゆったりとした波動であるのがわかった。それほどまでに強力な鎮めの力だったのである。
(これが、氷姫の力……)
一瞬圧倒されるも、すぐに気を引き締めなおす。
そして、再び訴えかけた。
「私は、深冬様の真実を届けに上がりました!」
しかし声は届かず、氷姫と幼夢達の力を合わせても氷之神の暴走は止まらない。
それどころか押されはじめ、結界を凌駕した一際 強い風が、雪姫と疾風を薙ぎ倒した。
「きゃあっ!」
「うわぁっ!」
態勢を立て直す前に追い討ちをかけられ、二人は崖の縁まで吹き飛ばされた。
次がくれば、命はない。
雪姫がひやりとした、その時──
吹雪を割って、強大な鎮めの波動が加わった。
反射的にその方面を振り返ると、山の上の村からであった。一葉の率いる、巫女達からの力である。
氷姫、幼夢達、そして一葉の陣営。それぞれの鎮めの力が呼応して混ざり合い、ひとつの大きな力となる。
鎮めの力と荒ぶる氷之神。静と動の力がぶつかり合い、衝撃で辺りの空気も、びりびりと激しく震えだした。
拮抗する両者であったが、摩擦を繰り返すうち、やがて氷之神にちらちらと正気に戻る瞬間が現れはじめる。