第三十章 雪と氷 参
百年前、氷姫は自らの命と引き換えに氷之神を封印した。
つまり、彼女は永きにわたり、白き闇から人々を守り続けてくれていたのだ。
雪女の血を引き、人より永く生きる氷姫。しかし、彼女は人間との混血ゆえに不死ではなかった。
死期を悟った氷姫は、己の肉体と霊力を結晶化させて氷之神を封印する際の核とした。
その核となった結晶こそが、いま雪姫が手にした勾玉である。
しかし、命と引き換えに施した封印も、相手が神ともなれば百年ほどしか持たないことがわかっていた。そこで、氷姫は魂だけの存在とっなったあと、父の血縁をたどって子孫に代々依る形で──わかりやすく言えば、憑くことで現世に留まり、ある願いを叶えるために機会を待っていた。
氷姫の願い。それは、氷之神に深冬の“死”を伝えること。
雪女には寿命が存在しない。ゆえに、深冬は亡くなった夫の如月と共に在るため、すべての霊力を娘の氷姫に譲渡し、人間に限りなく近い身となることで永遠の眠りについていた。
氷姫はずっと、氷之神にそのことを伝えたかったのである。
しかし、それが叶うことは、ついぞなかった。
暴走してしまった氷之神の力は凄まじく、抵抗するので精一杯の氷姫に、母の死を伝える余裕はなかった。
苦肉の策として、氷之神を神の次元に送り返すことで災厄を回避するも、彼は深冬を求めて再び人の世に降りてきてしまう。
降りてきてしまう氷之神と、送り返す氷姫。そしてこれは、彼女の死期が近づくまで繰り返された。
よって、氷之神はまだ知らないのである。寿命を持たないはずの深冬が、永遠の眠りについていることを。そして、何故そのような選択をしたのかを。
氷之神は、雪女の中でも特に深冬と親しくしていた。また、常に人の世にいるわけではなく、気まぐれに神の次元に帰ることもあった。
しばらく人の世から離れている間に、深冬は如月と出会って恋に落ち、娘をもうけ、永遠の眠りについた。
氷之神が人の世に戻ってきた時、深冬がいないことに気付いてひどく心配した。あらゆる場所を探し回るが、見つけることができず、悲しみが溢れに溢れて制御できなくなり、暴走に至った。
これが、すべての真相である。
虹色の光が収まると、雪姫の背後の存在も徐々に薄れて見えなくなる。
閉じていた少女の目が、ゆっくりと開らいた。
「雪姫!」
仲間達が駆けだす。
早智乃と幼夢は、困惑を抑えきれずに詰め寄った。
「な、何だったんですっ、今の!」
「氷姫って……どういうこと?」
「全部説明するわ」
雪姫は立ち上がり、結んでいた手を広げて皆に水晶の勾玉を見せた。
「これが氷姫よ」
「この勾玉が……?」
幼夢をはじめ、他の者達もそれを覗き込む。
「そう。正確には、彼女の半分。これは氷姫の身体と霊力を結晶化させたもので、あとの半分──魂の方は、私に憑いていたの」
「ええっ!」
仰天する仲間達に、雪姫は氷之神の封印についてや氷姫の願い、深冬と氷之神の真相のことを話した。
「そういうことだったの……」
しみじみとした様子で幼夢が呟く。
「これですべてが繋がりましたね。でも、まさか雪姫に氷姫が憑いていただなんて……」
「ええ。私もびっくり」
早智乃に言われて、雪姫も身を縮めて苦笑する。
驚いたが、たしかにこれで説明がつくのである。氷之神の封印が破られる際に頭に直接音が響いてきたのも、見えない手に頭を撫でられる感覚も、雪姫が暑さに極端に弱いのも、すべては氷姫の影響であった。
村の大巫女の孫である少女が時々、不思議な視線を送ってくることがあったが、もしかすると彼女には氷姫が見えていたのかもしれない。
「氷姫の代わりに、深冬様のことを伝えなければならないわ。鎮めの力と合わせれば、氷之神様もきっと正気に戻ってくれるはずよ。氷姫も、そのために力を貸してくれるって」
「わぁっ! 氷姫が味方してくれるなら百人力ね! ……うん、よし! それじゃあ、ここからは二手に別れることにしましょ」
「二手に?」
雪姫が、ぱちりと目を大きく瞬かせた。尋ね返すと、幼夢が首肯する。
「そう。雪姫と疾風はこのまま上に進んで? 私達は、ここで祝詞と舞を奉納するわ。さっきの氷姫の力に結界の効果があるのか、ここは吹雪の影響がほとんどないみたいだし」
「いいわよね?」と、幼夢が他の皆の顔を窺って確認をとる。
「そうですね。舞うとなると、ある程度の足場が必要となりますし、この場所は氷之神様の真下ですから、ちょうどいいかもしれません」
粋が答える。
なるほど。ここならば平坦であるし、氷之神との距離にも問題はなさそうである。となれば、吹雪の影響がないこの場所が最善であるように思われた。
「わかったわ」
「それじゃあ、お互いにすべきことを果たしましょ!」
「ええ!」
雪姫は、しっかりと頷いた。
「そうと決まれば、とっとと始めようぜ」
佳月が意気込んで腕を大きく回してみせる。
祝詞と舞の奉納組は、さっそく大巫女から借りた道具を広げ、教えてもらった通りに塩と酒を撒いて場を清める作業に入った。
「そうだ、雪姫。もしよかったら、これを使って?」
鎮めの準備が行われる傍ら、疾風が袖に手を入れ、中から紐を取り出した。
きょとんとしている雪姫に、「その勾玉」と指を差す。
「首に掛けられれば、なくさないし両手も使えて便利だろう? 僕の髪が長かった時に使っていた紐だから、お古で悪いけれど」
「ううん」と雪姫が首を振り、ふわりと柔らかく笑う。
「ありがとう、助かるわ。使わせてもらってもいい?」
疾風から紐を受け取り、さっそく孔の部分に紐を通す。首の後ろでしっかり結び、首飾り状にして勾玉部分は大事に羽織りの中にしまった。
これで準備万端である。
雪姫と疾風は開けた場所から、奥の山頂に続く道へと駆け出した。
切り立った山肌に沿って、再び坂道がはじまる。二人が登りかけたところで、
「疾風! 雪姫のこと、頼みましたからねっ!」
早智乃が口許に手を添え、叫んできた。
「うん。任せて!」
疾風が大きく手を振る。
雪姫も、皆に向かって叫んだ。
「いってきます!」
上に続く道と広場とで、互いに手を振り合う。
雪姫と疾風が、頂上を目指して坂を登ってゆく。それを見届けたのち、佳月が幼夢達の方に振り返った。
三人とも口を引き結び、意を決して頷く。
佳月も頷き返し、笛を構えて唇に当てた。
息を吸い、吹き込むと高い音が空気を震わせ、広がってゆく。
笛の音に合わせて、幼夢と早智乃が動きだした。二人の息は、ぴたりと合っていた。しゃん、と振りの中で同時に鈴が振られる。
粋も祝詞の巻物を広げ、氷之神に向かって読み上げはじめた。
「一葉様! 大巫女様!」
吹雪に煽られながら現れた人物に、霜白神宮の大巫女は思わず目を見開いた。
「清晏様」
「……何をしにきた」
一葉の声に覇気はなく、淡々としていた。纏う空気も凪いでおり、まるで別人のような印象である。
「氷室様からの、正式な使いとして参りました」
清晏の後ろには、二人ほど護衛がついていた。道中で何かあってはならないからと、氷室がわざわざ人員を割いてくれたのである。
道の方も、幸い霜白に避難する村の者達のお陰で拓いており、予想していたよりも早く村にたどり着くことができた。
到着して早々、清晏は役目を果たすために口を切る。
「一葉様、大巫女様。あの存在は、災厄ではありません。暴走してしまった氷之神様です。ですから、鎮めなければなりません。そのための方法も見つかりました」
「……祝詞と舞ですね」
大巫女が答える。
「ええ。大巫女様が探しておいてくださったお陰で、神宮を訪ねたらすぐに受け取ることができましたよ」
にこやかな表情で、清晏が持っていた祝詞の巻物を差し出した。
なんでも、見つかったのがここへの出発前だったと係の者から聞いている。幸運が重なったことを、清晏は感謝していた。お陰で時間を無駄にすることなく、ここまで来ることができたのである。
「先日、氷室様から依頼を受けておりましたので。でも、まさか事実だったなんて……」
大巫女が巻物を受け取り、申し訳なさそうに俯いた。
「一葉様、大巫女様。氷之神様を鎮めるには、一人でも多くの舞手が必要となるそうです。どうか、ご協力ください。お願いいたします」
「………………」
ちらり、と大巫女が許可を求めて一葉を窺い見た。
「……いいだろう」
黙って聞いていた一葉が、やっと言葉を発した。
「大巫女よ、氷之神を鎮めるための準備を」
「かしこましました」
大巫女が礼をして下がる。
一葉は前に踏み出し、巫女と兵士達に向かって声を張り上げた。