第五章 雪と風(後) 壱
雪姫はこの日、おむすびの他にもう一つ包みを提げていた。宿屋の女将から町で評判の店を教えてもらい、そこで桜餅を四つ買ったのだ。
一つは疾風の分。もう一つは藤太の分。三つ目は、来るか来ないかは分からないが、緑助の分。そして、ちゃっかり自分の分である。
雪姫は上機嫌で林を抜け、庭に出た。ところが今回はこれまでとは違い、縁側に疾風の姿は見当たらなかった。
部屋の中にでもいるのかと思い、呼び掛けてみようとしたところで遠くの方から声がかかる。
「雪姫ー! こっちこっち!」
雪姫がそちらを振り返れば、疾風が庭の木を背にして座り、大きく手を振っていた。
「おはよう、雪姫」
風が吹く度にざわりと揺れる木洩れ日の中、立ち上がった疾風が今日も穏やかな笑みと共に雪姫を迎える。
雪姫は、心の中で何度も練習してきたことを実際の声に乗せた。
「ええ。おはよう、“疾風”」
存外、自然に言うことができた。
疾風ははっとし、雪姫を見つめる。
「……ありがとう。昨日の約束を、守ってくれて……」
その少しはにかんだような、嬉しそうな顔に、少女からも思わず笑みがこぼれる。雪姫は弾んだ気持ちのまま、続けて提案を持ちかけた。
「あのね、疾風。今日はお土産を持ってきたの。お昼のあとにみんなで一緒に食べましょう?」
そう言って包みを少し開け、桜の葉にくるまれた薄紅色の菓子を見せる。
「これは?」
「桜餅よ。知らない? 甘くって、でも少ししょっぱくて、香りが良くって、とても美味しいの」
どうやら疾風は桜餅を知らないらしい。何も言わず、ただ考えるようにじっと視線を注いでいる。
「藤太さんや緑助様の分もあるの」
「そうか」
疾風は一言だけ呟いた。雪姫には、その声がいつもと違って無機的なものに感じられたため、不安になって聞き返す。
「疾風?」
「どうしたの、雪姫?」
「あ、いえ……なんでもないの」
逆に聞き返されてしまった。向こうは至っていつもの調子である。
気のせいだったのだろうか。雪姫が心の中で首をひねっていると、疾風が「そうだ」と思いついたように声をあげた。
「ところで今日なんだけど、天気も良いし、庭の散策をするのなんてどうかな?」
「賛成。いいわね、そうしましょう」
話しているうちに、先ほどの違和感は気のせいだったのではないかと思えてきた。思い直した雪姫は、疑問を頭から追い出して疾風と庭を回ることにした。
それから二人はあてもなく庭の散策をはじめた。
散策といっても、質素な庭なので雑談を中心にただ野原に咲く草花を見たり、林の中を歩いたりするだけなのだが。それでも二人は十分に楽しい時間を過ごすことができた。
広い庭をぐるりと一周し、少し早いが昼食にしようと、一番最初の木のところまで戻ってきた時のことであった。
「そういえば、池があるのね。何か魚を飼っていたりするの?」
木のそばに小さな池を見つけた雪姫が、近くまで寄ってゆき、その縁石の上に立った。身を屈めて中を覗き込めば、水の中では十匹ぐらいだろうか。大きな鯉達が優雅に体をしならせながら、自由に泳ぎ回っているのが見えた。
日の光で鯉の鱗が銀色にきらめき、その様子は、まるで水晶を纏っているかのようである。
「あっ、雪姫。その石……」
「えっ?」
雪姫が夢中になって眺めていると、後ろからやって来た疾風が何かを言いかけた。それに応えようと振り返ろうとした次の瞬間、足が滑り、雪姫は池の中へ落ちそうになったのだが────
何が何だかわらないうちに、気付けば自分はどこも濡れていないのであった。
一瞬の出来事である。雪姫は心を落ち着かせ、何が起きたのかを順番に整理し、把握してゆこうと努めた。
どうやら、池に落ちそうになった雪姫の腕を疾風がとっさに引き寄せ、助けてくれたらしいのだが。引き寄せられたその勢いのせいで、疾風に抱きついていた。しかし、問題はそのあとである。新たに判明した事実のせいで、頭の中は真っ白になってしまった。
「ごめん! その石、滑りやすいから気を付けてって言おうとしたんだけど……かえって危ない目に遭わせてしまったね」
聞き終わるや否や、雪姫は半ば突き飛ばすような形で疾風から素早く離れる。そして今の言葉もそっちのけで自分の言葉を紡いだ。
「は、疾風……あなた……男──?」
息もすっかり上がり、心臓が内側から激しく胸を叩く。驚きと混乱のあまり、雪姫は思考が停止してしまい、立っているのが精一杯であった。それに対し、疾風はきょとんと不思議そうな顔をした。
「うん。そうだよ?」
「そ、そうだよって……どういうこと? だって、あなたは最初に“自分は巫女だ”と言ったわ! どうして嘘なんか…………」
「うん。皇子だよ? 正確には、帝の甥だけれど」
帝の、甥。
「ちょっ、ちょっと待って。と、いうことは…………」
やっと雪姫の中で話が一つに繋がり、今まで自身がとんでもない勘違いをしていたことに気が付いた。
「巫女じゃなくて、皇子────!」
なんと、そのことに気が付いたのは、疾風と出会ってから三日目のことだったという。