第二十八章 対面 伍
「……うん、大丈夫! 必要なものは全部そろっているわ」
「ありがとうございます、雪姫さん。では、これで準備完了ですね。明日に備えて休みましょう」
確認作業が終わり、粋の指揮で解散となる。皆が立ち上がったところで、雪姫が疾風を呼び止めた。
「あの、疾風」
「雪姫、私達は先に戻ってるから」
気を利かせてくれたらしい。幼夢と早智乃が振り返り様に軽く手を上げて合図し、部屋を出てゆく。
疾風は二人から視線をこちらに戻し、雪姫に問いかけた。
「うん。どうしたの?」
「あのね、少しだけ話を聞いてもらえたらなぁ、と思って」
「……わかった。それじゃあ」と少年は軽く首を巡らせ、辺りを見回した。
「庭に出ようか」
たしかに。ここは男性陣の部屋であるため、佳月や粋を追い出す訳にはいかない。
了承すると、疾風は部屋の二人に声をかけ、雪姫を連れ立って夜の庭に出た。
霜ついた道を、さくさくと踏みしめながら進んでゆく。
気温の低下は進行しているようであった。夜ともなると、殊さら冷える。雪姫も疾風も、山で羽織を着てからそのままの格好でいた。
二人で篝の前に立ち、ぱちぱちと薪の爆ぜる音を聞きながら、明かりと共に暖を取る。
雪姫は、暗闇の中で燃え上がる炎に目を向けたまま、隣の疾風に語りかけた。
「屋敷へ帰ってくる途中にね、氷室様から聞いたの。疾風が一早く私の居場所を突き止めて、知らせてくれたんだって。だから、ありがとう。私が助かったのは、あなたのお陰よ。私、いつもあなたに助けられているわ」
そうっと首を動かして、少年を窺う。
疾風は黙ったまま、炎を見ていた。
二人の間に、静かな時が流れる。やや間を置いてから、疾風がぽつぽつと話し出した。
「拐われた先の場所が場所なだけに、僕にはどうすることもできなかった。氷室様に頼るしか、なかったんだ……」
「で、でも、それが最善だったのではないの?」
雪姫が困惑しながら問う。
疾風は何も間違ってなどいない。むしろ一葉の屋敷に単身で乗り込む方が、よほど愚かしいといえた。ゆえに、彼がどうして思い悩んでいるのかを少女は掴みきれずにいた。
疾風はさらさらと髪を揺らしながら、否と首を振る。その目元が、切なげに歪んだ。
「違う。違うんだ、雪姫。そうじゃない。僕は──」
ひゅ、と息が喉の奥に消える。少年はゆっくりと両手を持ち上げ、己の手のひらを眺めた。
「僕は、この手で……自分自身の手で、雪姫を救い出したかった。君を助けるのは、氷室様でなく、僕でありたかったんだ……」
無力を噛み締めるかのように拳を握り、空を仰いで目を瞑る。
「この命は雪姫にもらったものだから、雪姫のために使いたいと思っていた。それぐらいの覚悟をもって君を守ると約束したはずなのに、この様だったから」
ほうっと落胆の息を吐き出し、ゆっくりと目を開く。
態勢を戻して身を翻すと、地面と草鞋が擦れて、じゃり、と微かな音が立った。
「だから悔しくて、情けなくて、落ち込んでいただけだよ」
疾風の双眸が、やっとこちらを向いた。少女を見て、悲しげに微笑む。
「疾風……」
雪姫には、かける言葉が見つからなかった。
落ち込む原因を作ってしまった当人が、慰めの言葉をかけるのはよくない気がした。では、何と言えばよいのだろう。どうすれば、彼の心は救われるのだろう。
歯痒くて仕方がない。
「────っ」
雪姫が距離を詰めて、疾風の両手を自身のそれで上から強く包み込んだ。
重ねた手に思いを注ぐつもりで俯き、ぎゅっと口を引き結ぶ。
(私には、こうして寄り添うことしかできない。でも──!)
かつて、それで救われたことがあるのだ。
若草の皇子が亡くなったと報じられた日。人目も憚らずに道のど真ん中で大泣きした、あの時に。寄り添ってくれた人達がいたことで、雪姫は確かに支えられたのである。
だから疾風にとっても、そうであれたらと心底から願った。
果たして、その思いが通じたのか。
(─────あ……)
少女の手の内側が動き、小さく握り返される。
なんだか、雪姫の方が泣きそうになってしまった。
疾風は何も言わない。雪姫も、聞いたりはしなかった。ただ黙って、彼と彼の心に寄り添い続けた。
「ありがとう、雪姫。もう大丈夫だよ」
お互いの手の温度が溶け合った頃。深呼吸の気配のあとに、優しい声が降ってきた。
雪姫が顔を上げると、先ほどよりずいぶんと和らいだ表情とぶつかった。
「ほ、本当に? 私に気を使って無理していない?」
慌てて問うと、微笑みが返ってくる。
「うん。本心で言っているから、安心して」
疾風の言葉を合図に、両者はゆっくりと手を放し、向き合った。
「お陰で気持ちの整理がついた。雪姫を守るという約束だって、まだ続いている。刺客が襲ってくる心配はなくなったとしても、氷之神様を鎮めるまでは何があるかわからない。だから、二度と危険な目に遭わせたりしないよう、全力を尽くすよ。あと……」
照れくさそうにし、一瞬だけ躊躇ってから、口にする。
「今さらではあるけれど……君が無事で、本当によかった。お帰り」
はっとした少女の表情に、喜びの色が広がってゆく。
「ええ。ただいま!」
雪姫はもちろん、元気な笑顔で応えた。
疾風も頬を緩める。目を細めたその表情は、いつもの穏やかなものに戻っていた。
「心配してくれてありがとう。雪姫は、僕の様子を気にして声を掛けてくれたんだろう?」
「やっぱり気付いていたのね」と、少女が苦笑した。
「どうしても気になって、見過ごせなかったの。とても責任を感じているようだったから」
疾風は少しだけ黙ると、再び口を開いた。
「ねぇ、雪姫は……さ。どうして僕が君を守りたかったか……わかる?」
「えっ?」
不意の質問によって、少女の瞳が、ぱちりと大きく瞬く。
疾風は少し前屈みになり、そんな雪姫の顔を覗き込むようにして視線を合わせた。
「僕がそう思うのは、命を救われたからという理由だけじゃないよ。優しい君だから。雪姫だから、守りたいと思うんだ」
疾風の瞳が、何かを訴えていた。いつもは優しく穏やかなそれが、今は芯の通った直向きなものに変わっている。
「君に、この気持ちの意味が……わかる──?」
ふっと、少年の瞳が熱を帯びた。
繋がる視線を通じて、雪姫の中に疾風の意識が入り込んでくるような錯覚に囚われる。じわりじわりと内面が少しずつ攻め侵され、追いつめられてゆく感覚がして、怖くなる。それでも、視線を逸らしたりできなかった。
否、逸らしたくなかった。
このまま彼を見ていたい、この視線を受け止めていたいという思いの方が勝っていたのである。
(ど、どうしよう、どうしよう。私……)
少女の心臓は、早鐘を打ちはじめていた。
もう、自身が心臓になってしまったのではと思えるほどに、鼓動が身体中に響いている。顔も、なんだか燃えるように熱かった。内側から上がってくる熱のせいか、瞳も勝手に潤みだす。
(私……)
がらり、と篝に焼られていた薪が崩れて、火の粉が散る。
互いに、はっと我に返った。
「ご、ごめん、寒いのに長こと付き合わせてしまって。そろそろ戻ろうか」
疾風が、さっと雪姫から素早く離れて踵を返す。雪姫の方も「え、ええ。そうね」と、応答こそできたものの、内心では激しく狼狽していた。少年を追いかけて隣につくが、自身の思いに気付いてしまった今、すぐには彼の顔を見ることができそうになかった。
歩きながら、胸の上で拳を握りしめる。
(うそ、うそ。どうしよう。どうしよう! だって、これって……この気持ちって、もしかして──────)
雪姫は、ぎゅっと目を瞑った。
どうやら自分は、疾風に恋心を抱いているらしい。