第四章 雪と風(前) 弐
(──ただの村娘、だな)
緑助は、雪姫を一瞥するや否や、安堵した。
疾風の話を聞いてからというもの、気が気でなかったのだが……よかった。どうやら杞憂に終わったようである。
「緑助は現役の武官で、時々私に武術を教えに来てくれているんだ」
疾風からそう聞かされ、雪姫が瞠目する。
(ええっ! 若草の巫女さんって、武術も習うのっ?)
もちろん習うはずがない。
大概の者なら、ここでおかしいことに気付くはずなのだが。雪姫の場合はもう完全に疾風のことを巫女だと思い込んでいるので、若草の巫女は田舎の風見ヶ丘とは違って様々な教養を身に付ける必要があり、大変なのだろうと一人で勝手に納得し、感心する。
そんな風に少女が自己完結させていようとは露知らず、緑助は話を続けた。
「疾風様から話をお伺いしたものですから、一目お会いしたくて朝から飛んで参ったのですよ。どうか疾風様と仲良くしてやってください。では、私はこれで」
そう言って緑助は特に雪姫にかまうわけでもなく、さっさと部屋の奥へと退散し、行ってしまった。
それを見届けたのち、疾風がまたおかしそうに笑った。
「だからあれほど心配いらないと言ったのに。ね?」
そう言われても、雪姫にはいったい何のことであるのか、さっぱり分からない。ぽかんとつっ立ったままでいると、疾風に「さぁ、上がって」と声をかけられ、そのまま部屋へと招き入れられた。
建物の中を一通り案内してもらい、縁側に戻ってくると、二人はそこで腰を落ち着けた。
庭を眺めながら話をしているうちに、雪姫はあることを思い出した。
「そういえば、疾風さんはここを出られないと言っていたわよね」
「ああ、私は病気がちで身体が弱いらしい。だからここから出られないそうだよ」
雪姫の疑問に対し、疾風はそっけなく、まるで他人事のようなもの言いで答える。少々引っかかりを覚えたが、それよりも雪姫は病気というその言葉に眉をひそめた。
「あ、いや、周りが大袈裟に扱っているだけで、私はぜんぜん元気なんだ。だから心配いらないよ」
疾風が慌てて手を振り、否定する。けれども雪姫は素直に納得することができなかった。
「そう……でも、お大事にね?」
「うん」と疾風は困ったような、悲しそうな表情で微笑んだ。
「ごめんね、雪姫。心配してくれてありがとう」
それから二人は話題を次から次へと新たなものに移し、飽きもせずにしゃべり続けた。
風見ヶ丘のこと、白峰のこと、緑助や藤太のこと、今読んでいる書物のこと。とにかく、お互い話題が尽きることはなかった。そして疾風は好奇心旺盛であることがわかった。
彼は外に出られないということも手伝って、雪姫によく質問をしてきた。お陰で、こちらが質問攻めにあってしまうという場面もしばしばあった。しかし、答えるとあまりにも目を輝かせて嬉しそうに聞いてくれるので、雪姫の方もついついしゃべってしまうのであった。
こうして時間はあっという間に過ぎてゆき、夕刻を告げる鐘が鳴る。一日にしてすっかり打ち解けた二人は、明日も会う約束をした。
「疾風さん、今日はどうもありがとう。楽しかったわ。それじゃあ、また明日」
「あっ、待って雪姫」
雪姫が帰ろうと立ちあがった時。疾風に呼び止められ、手首をそっと引かれた。くるりと少女の身体が反転し、再び整ったかんばせと向き合う。
「ど、どうしたの? 急に」
驚いていると、唇をぎゅっと引き結んでいた疾風が意を決したように口を開いた。
「せっかく友達になれたんだ。だから、明日からは私のことも、風見ヶ丘の友達と同じように“疾風”と名前で呼んでほしい。だめ……かな?」
「名前で? でも……」
ただの農民が神様に仕える巫女を呼び捨てにしてもよいのだろうか。雪姫が迷っていると、疾風の顔がだんだんと淋しそうに歪んでゆく。
(そ、そんな顔をするなんて、卑怯よ──!)
少女は心の中で叫んだ。
結局、最後は雪姫が折れた。
疾風はとても満足そうであった。
その夜。雪姫は父の帰りが遅かったため、先に風呂と食事を済ませていた。
「あっ、お帰りなさい」
「ただいま」
雪姫が布団を敷き終え、それに潜り込んだところに白峰が帰ってきた。
白峰は荷物を置き、どっかりと座ると、もう冷めきった膳を腹に収めながら娘に尋ねる。
「そういえば、今日は昨日友達になったという子のところへ行ってきたんだろう? 楽しかったかい?」
「ええ。とっても! 明日も行くと約束をしたのよ」
雪姫は被っていた布団から、ほくほくと嬉しそうな顔を覗かせた。
白峰は娘がご機嫌であることに気付いていた。からかいを込めて「あれほど若草行きを嫌がっていたのに」と笑う。
たしかに、そうであった。
雪姫は初め、若草に行くこと自体が憂鬱であったはずである。それが、どういうわけか変化が起こったのだ。
「だって……まさか友達ができるだなんて、思ってもみなかったんだもの」
疾風という友達ができたお陰で、気付けば憂鬱な気分もどこかへ吹き飛んでしまっていた。しかし、変化はそれだけではなかった。臆病な性格の自分が今、塀の隙間から人様の敷地へ勝手に上がり込んでいる。
もちろん、普段ならば絶対にそのような真似はしない。藤太から言われて仕方なしにそこから出入りしているのだが、そうだとしても今までの雪姫には度胸が足りず、できなかったことである。いったい何が変化をもたらしたというのだろうか。
「どんな人なんだい?」
「優しくて、好奇心旺盛で、物知りで、とっても綺麗な人なの」
言ったあとで、はっとした。美人薄命。そんな言葉がふと頭の中を過ったのである。
本人は大丈夫だと言っていたが、やはり心配になった。
(病気、大丈夫かしら……)
「どうしたんだい? 急に黙ったりして」
「ううん、何でもないの。そろそろ眠たくなってきただけ。それじゃあ、もう寝るわね。おやすみなさい」
雪姫は暗い気持ちをかき消し、すっぽりと頭から布団を被った。目を閉じれば今日一日の、疾風の笑顔が頭に浮かぶ。
本当に嬉しそうに笑うのだ。だからもし、あの笑顔のために自分にできることがあるのなら、何でもしたいと雪姫は純に思った。
(明日、お土産でも持って行こう)
瞼の裏に浮かぶのは、疾風の喜ぶ姿。
あながち外していないかもしれないと思うのは、自惚れすぎているだろうか。