第二十七章 白き闇 肆
(これは……)
実体はないが、“それ”は確かに存在していた。
洞窟の前には、氷霧のような淡い光の帯を纏った、白く輝く大きな存在が浮かんでいた。
ドコニイル……
再び、風自体がしゃべっているような声が、全員の耳朶に響いた。
ヘンジヲ シテクレ……
雪姫は息を呑み、硬直する。
放たれる厳かな気に、ただただ圧倒された。力の大きさを肌で感じ、全身が戦慄く。人がどうこうできる存在ではないのだと、次元が違うのだと、生物としての本能の部分がそれを察知していた。
ナゼ コタエテクレナイ……
ナゼダ……アァ ナゼッ!
まるで、白く輝く存在に吸い寄せられるかのごとく、上空で雲が渦を巻きはじめる。
気配は不穏なものに変わり、陰った空が、重くのし掛かかるようにして低く迫った。
ヘンジヲ シテクレ
ミフユ──!
輝く存在が閃光し、冷気の爆風が起こる。さらに下方から噴き出した氷の群晶が、地表を駆け、波のごとく雪姫達に押し寄せた。
猛然と襲いかかり、無数の鋭利な先端が迫る。
その様は、あまりも凶暴。あまりにも、凶悪であった。
速すぎて動くのも間に合わない。全員が惨たらしい結末を悟った、その時。寸でのところで、淡く虹色に揺らめく透明な光の壁が立ち上がり、群晶の進攻を防いだ。
双方は凄まじい勢いでぶつかり、陶器が割れたような、けたたましい音が辺りを震わす。
壁の外側では、衝撃で砕け散った氷の破片が虹色の光を反射させながら降り落ちていった。
雪姫は肩から後頭部にかけて、ぞわりと上昇感のようなものを感じていた。
「なっ──!」
仲間達は驚き、声を詰まらせる。なんと、壁と同じ淡い虹色の光が、雪姫からも生じていたのである。
壁は雪姫達を球状に包み込むと、次元を歪めて砂粒ほどにまで小さくなり、弾けて消えた。
きらきらと光の粒が振り撒かれたその跡を、次なる群晶の波が貫いた。
霜白のあらゆる場所から、人々の混乱や恐怖の声があがっている。
御所では、仕事をしていた氷室が外の騒ぎを聞きつけて、部屋から飛び出したところであった。
「こ、これはっ!」
中庭に出ると、皇宮の背後に聳える山の上空で雲が渦を巻き、都全体に暗い影を落としていた。しかし、異変はそれだけに留まらなかった。
山頂近くが霧ががったように煙りだし、森の緑に白いものが浮き上がりはじめる。それらは、じわりじわりと勢力を伸ばし、ゆっくりと降下してきた。
(なんということだ……あれはもしや、白き闇──!)
霧のような煙は冷気、白いものは霜であった。
侵食は止まる気配をみせない。ゆっくりとではあるが、確実に山の上の村との距離を詰めてゆく。
氷室は朝、家臣から雪姫達が早くから山の上へ調査をしに出掛けていったと聞いていた。山から吹いている不自然な風が、もしや白き闇の前触れであるかもしれないからと、急いで出ていったようであった。
その予想は当たっていたらしい。
屹立する氷室の前に、さらに現実離れした事態が起こる。
中庭の中央辺りに、砂粒ほどの小さな光が現れ、宙で次第に大きく球状に膨れ上がってゆく。光の球は淡い虹色の光をたゆたわせながら成長し、弾けて消えた。
その中から雪姫達が現れたので、氷室は目を剥いた。
「き、君達!」
驚きの声をあげ、慌てて傍に寄る。
雪姫から発していた光は弱まり、やがて完全に収束した。
「私達、いったい……」
それ以上の言葉は続かなかった。雪姫は何が起きたのかがわからず、放心する。
肩から後頭部にかけての上昇感も消えていた。虹色の光が弱まるのと同時に、引いていったのである。
「雪姫!」
我に返った疾風が少女のもとに駆け寄り、膝をついて支えながら周囲の状況に驚く。
「氷室様? それに、ここは霜白の皇宮?」
「い、今のはいったい……なんだ? 私は、夢でも見ているのか?」
氷室は目眩と似た感覚に襲われ、額を押さえる。見間違えだったのではないのかと、自身を疑った。
「おいおい、どうなってるんだ? 俺達、さっきまで山の上にいたよな?」
佳月も、困惑を隠せないようであった。座り込んだまま、しきりに辺りを見回している。
「わ、わたくし達、助かったってことです、よね……?」
早智乃が表情を硬くしながら、粋に問いかけた。
尋ねられた少年は温度差で曇ってしまった眼鏡を素早く拭い、かけ直す。
「は、はい。そのようですが……それにしても、あの虹色の壁は……」
「見てっ!」
切迫した声がその場の空気を破った。
幼夢が、上を指差している。
指された先を見て、雪姫達は息を呑む。山の様子に愕然とした。
冷気と霜が山の上の村を飲み込み、そのまま霜白にも近付いてきていたのである。
「そんな……白き闇が……」
茫然と瞳を揺らす雪姫の唇から、乾いた声がこぼれ落ちる。
「白き闇が、降りてしまった……」
雪姫達に成す術はなかった。
間もなくして押し寄せた静かな大波が都を飲み込み、辺りは氷の結晶でびっしりと白く覆いつくされた。