第二十六章 前進 肆
「私ね、霜白で若草の皇子が亡くなったという触れ書きを見た時、あなたのために涙を流せなかったの。自分のためにしか、泣けなかった。だから、ごめんなさい」
雪姫は身を縮めて俯いた。身体の前で手を重ね合わせ、嫌われたり、幻滅されるのではないかという恐怖に耐える思いで固く握る。
「私、それまでずっと苦しかった。白き闇がいつくるのかって怖かったし、氷姫の手がかりが見つからなくて焦ってもいた。幼夢達といることで自分の器の小ささを突きつけられて、劣等感や嫉妬で胸の中はもう、ぐちゃぐちゃだった。それなのに、泣きたくても涙が出てきてくれなくて、ずっと泣くことができなくて……苦しかった」
少女は一気にしゃべった。脳裏には、当時の気持ちと情景が次々と浮かび上がっていた。
「さらに調査をしてゆくうちに氷姫が亡くなっていたことがわかって、絶望して。茫然としながら霜白に帰った時、若草の皇子が亡くなったという触れ書きを見て心が大きく揺れたの」
そこで雪姫は顔を上げた。
「そのお陰で、私はようやく泣くことができた。枷がはずれて、溜め込んでいた感情を外に出しきることができた。だから疾風は、ずっと泣きたくても泣けなかった私に涙をくれたのよ。あなたのお陰で、私は前に進めるようになったの」
すべてを告げてから疾風を窺う。彼は、どこか安心したように表情を和らげた。
「そっか……僕も、少しは雪姫の役に立つことができたんだ……」
そっと手が伸ばされる。近付いてきた彼の指が、当時の涙を拭うように雪姫の目許を優しくなぞっていった。その仕草と温かさに、思わず心臓が跳ねる。
「あ、あとね、私、真似ごとではあるけれど、“花流し”までしてしまったの。てっきり、あなたは暗殺されたのだとばかり思っていたから……だからこれについても、ごめんなさい」
慌てて俯き、目を泳がせる。不意にうるさく鳴りはじめた鼓動を追いやるように、雪姫は次なる胸の内を晒した。疾風のことを、完全に死人扱いしてしまっていたのである。なんだか申し訳ない思いであった。
「それはしょうがないよ」と疾風が笑いながら雪姫を肯定した。
「だって、僕が生きていたことを雪姫が知れるはずなかったんだから。むしろ、気にかけてくれていたんだなって、嬉しいぐらいだよ?」
そう言って、腕を組む形で欄干に寄りかかる。目線が下がって、二人はより近くなった。
間近に見える顔が、本人の言うとおりとても嬉しそうなので、雪姫からも罪悪感が少し薄れて気持ちが僅かに浮上した。
「あっ! そうだ、思い出した」
話に区切りがついたところで、突然疾風が身体を起こして再び少女を見やった。
「雪姫、お父上に僕のことを男だったと訂正していなかったんだね。女性だと勘違いしたままだったから、僕が若草での友達だと知ってとても驚いていたよ」
雪姫は、喉の奥をぐっと詰まらせた。
「そ、そういえば、改めて伝える機会もなかったし、忘れていたわ……」
ばつが悪そうに声を絞り出し、遠い目をする。
当時の記憶が、まざまざと甦ってきた。雪姫は初めの頃、疾風のことを皇子ではなく巫女だと思い込んでいたのである。とんだ勘違いをしていた当時の自分が恨めしい。恥ずかしすぎる。もう、穴があったら入りたいと思った。
「でも大丈夫。君のご両親には、雪姫が勘違いしていたので男らしくなるために一年修行して来ました、って言っておいた」
疾風が、きりりと得意気に報告する。居たたまれなくなった雪姫は、欄干に思い切り突っ伏した。
「そ、その節は、大変失礼いたしました……」
満身創痍な声で降伏する。くるくると表情を変える少女の様子に、疾風は笑い声をたてた。
「ねぇ、雪姫。風見ヶ丘で待っているご両親のためにも、必ず無事な姿で帰らないといけないね」
「ええ、そうね。でも、そのためにも一刻も早く白き闇の原因を突き止めて、防がないと」
雪姫がそろりそろりと起き上がると、予想に反して真剣な眼差しとぶつかった。
「調査に危険が伴うなら、僕が君を守るよ」
雪姫は、びっくりして呆けてしまった。
一年前と変わらない疾風。けれども、確かに変わった疾風。そこには、もう巫女になど間違えようがないほどに凛々しく頼もしい一人の男性がいた。
「佳月達と一緒に、きっと守りきってみせるから。だから改めて、これから仲間として、よろしく」
微笑みと共に少女の前に手が差し出される。急に男らしく見えてしまったせいで気恥ずかしくなる。が、雪姫はその手を取ることを迷ったりはしなかった。
「ええ、こちらこそ。よろしく」
握手が交わされ、二人の間に温かな空気が流れる。
遠くの方で夕刻を告げる鐘が鳴った。いつの間にやら辺りも暗くなりはじめている。
「そろそろ戻りましょうか」
「そうだね」
部屋に戻ると、二人は仲間達に迎え入れられた。皆でわいわいと賑やかに夕食をとり、食後には幼夢と佳月が疾風の仲間入りを祝して舞と笛を披露してくれた。解散してから湯あみをし、床に就く。
振り返ってみると、なかなかに濃い一日であった。今日はいつにも増して、目まぐるしかったように思う。雪姫はもちろん、すぐに寝入った。