第二十六章 前進 参
二人が別行動を開始してから、間もなくして疾風は篠塚に追い詰められた。
兵士達と激しい攻防が続き、疲労で無意識のうちに腕も下がりはじめる。隙が生じ、そこに一人の野盗に扮した兵士が踏み込んできた。
素早く、また、動きも驚くほどに洗練されていた。疾風は虚をつかれ、その者に腹から肩口にかけて斜めに斬り上げられる。が、痛みはなかった。胸に仕込んでおいた墨紅が本物の血のように滴り、着物にも染みが広がる。
瞬時に悟った疾風は、重力に逆らわず、そのまま身を任せた。
自分を斬った男と目が合う。覆面の隙間から見えたのは、よく見知った細長の鋭い瞳。もちろんそれば、草助のものであった。
「──ほらよ」
川から上がって膝をついていた少年に、草助が護身刀を返してよこした。
「ありが、とっ……そ、すけ」
先ほど水を飲んでしまったせいで、噎せて涙目になっていた。疾風は咳き込みながらも、差し出されたそれを確と受け取る。
「ったく……生きて還ってこれて、よかったな」
見下ろしてきた草助は、腕を組みながら、やれやれ一安心といった風に力なく口角を吊り上げていた。
それから疾風の呼吸が落ち着くのを待ち、山吹の隠し倉庫へ向かうことになった。
草助に連れられてやってきたのは、岸から少し森を歩いた先の洞窟であった。
忍びの携帯道具で草助が火を起こし、灯りを頼りに奥へと進む。
倉庫の入口は、洞窟の突き当たりの脇にあった。岩で上手いこと隠されており、近くにある板状の石を使って、梃子の原理で岩を退かすことで中に入れる仕組みとなっていた。
山吹はこうした自然の中に隠した倉庫を、いくつか持っているのだという。いざという時のための食料の備蓄庫であり、武器の保管庫にもなっているそうであった。
内部は思いの外広く、物が置かれていない面積だけでも優に七、八畳はあった。道具もいろいろと揃っていたので、ありがたく使わせてもらうことにした。
火を焚き、疾風は衣を干して乾かす。暖を取りながら傷の手当てをし、一通り看終わったあとは布にくるまりながら草助と状況の整理をした。
草助によると、敵は作戦どおり疾風のことをほとんど助からないものとして扱っているらしかった。軍は撤収をはじめ、明日の朝、明るくなってから改めて川での捜索が行われるのだという。
距離からして、ここは追い詰められた岸からずいぶんと離れている。そのため、軍もすぐにこちらまでは来ないだろうと草助は言った。また、明日の朝にでも山吹の者がここを訪れるだろうと予想した。
森に逃げ込んだ疾風達の行方を追って、村の誰かしらがやってくるはずである。山吹の影の拠点でもある倉庫は、森を捜索する際にまず先に訪れるであろう場所とのことであった。草助も、そのことを踏まえてこの場所を避難場所に選んでいた。
軍がすぐにこちらまで来ることもなく、山吹とも連絡が取れることがわかった。ひとまず安心してよさそうである。疾風は疲れた身体を横たえ、護身刀を大事に抱えながら眠りに落ちた。
翌朝、まだ空が明るくなりきらないうちに、草助の予想どおり山吹から使いの者がやってきた。
草助がこちらの経緯を伝え、使いが山吹の状況を話して情報を交換する。村の方は、昨日のうちに解放されたようであった。使いは二人の無事を村に伝えるのと、草助から受けた新たな指示を実行するために山吹へと帰っていった。
草助からの新たな指示とは、疾風の安全を確保するために立てられた策の準備のことであった。
しばらくして男が再び倉庫へやってきた。商人に扮した彼の手引きにより、疾風は若草の緑助の屋敷へ運ばれることになった。
牛車の荷物と共に揺られて一緒についてきてくれた草助であったが、若草に着いて疾風を緑助に任せると、そこでお別れとなった。これから山吹に戻らなければならないらしい。
草助にはいろいろと世話になり、何だかんだいって懐いてもいたので、別れの際は少しだけ泣きそうになった。
こうして、疾風は緑助の屋敷でしばらく匿われることになった。
一方、国の動きはというと、長期にわたって川での遺体捜索が行われた。当然のことながら、疾風の亡骸が上がることはなかった。
疾風に敗れて川に落ちた篠塚の軍の者も、氾濫のせいで何人かの遺体はどうしても見つからなかった。そのこともあり、帝もついにあきらめがついたらしく、疾風が逃げ延びてから数ヶ月後に若草の皇子が病で亡くなったと報じられた。
若草の皇子は死に、疾風はただの少年になった。
ついに、いつ殺されるかわからない、呪われた人生から解放されたのである。
疾風はその日、皇子としての自分と決別の意味を込めて護身刀で長かった髪を切り落とした。
心身共にすっかり身軽になった疾風は、さっそく雪姫との約束を果たすために風見ヶ丘へ向かうことを決めた。
出発の日の朝、旅支度を整え、笠を被る。桔梗色の衣に銀鼠の袴を纏い、護身刀ともう一本、新しく緑助に頼んで用意してもらった一振りの刀を腰に差した。護身刀は大切なお守りであるため、普段使い用に別の刀が必要になったのである。
若草を出る時、疾風は都の外れにある川に立ち寄り、白い花を流して“若草の皇子”を弔った。
「それからは、昨日話したとおりだよ。風見ヶ丘を訪ねて、君のご両親から雪姫が氷姫捜しのために霜白へ行っていると聞いて、急いで追いかけたんだ」
「本当に、いろいろなことがあったのね……」
疾風と再会した際、死んだように見せかけることができたと言っていたが、たしかに“いろいろ”という言葉どおりであった。彼はいくつもの危機を乗り越え、今ここにいるのである。改めて、これがどれほど途方もなく、貴いことであるのかを知った。
雪姫は、疾風がこの場にいることの軌跡と奇跡を噛み締めた。
「話が聞けてよかった。こうしてあなたが隣にいてくれることが、どれほどのことなのかって、改めて知ることができたから」
雪姫は、身体ごと疾風に向き直る。
「疾風。『生きて、風見ヶ丘まで私に会いに来て』っていう約束、守ってくれてありがとう」
上向いて伝えると、疾風は目を細め、頬を緩めた。
「うん」と頷き、はにかんだように笑う。
疾風は、ずっと護身刀を大事にし、雪姫のことを想っていてくれたのである。そんな彼にきちんと報いなければと、少女の胸にとある決心が芽生えた。
疾風に対して申し訳なく思っていたことを、ここで打ち明けることにした。
「あのね、この際だから、私もあなたに話しておきたいことがあるの。聞いてくれる?」
「もちろん」
今度は疾風が耳を傾けた。