第四章 雪と風(前) 壱
日も山陰にどっぷり漬かり、辺りが暗くなった頃。自身の屋敷に帰り着いた緑助は、書斎に入るなり尋ねた。
「藤太。まさかお前とあろう者が、村娘一人入り込んだことに気付かなかったわけではあるまいな?」
その声からは、少々疲れの色が窺えた。
「もちろんです」
音もなく緑助の背後に現れた黒装束の青年が、跪いた。
「気絶させて外にでも出そうかと見計らっていたところ、疾風様が先にお声をかけられたのです。もし刺客でしたら、敷地に近づいた時点で葬っておりますので、ご安心を」
顔色を何ひとつ変えず、恐ろしいことをさらりと言ってのける藤太であったが、実のところ雪姫の扱いには非常に困った。ある意味、刺客の方がまだましであったかもしれない。そうであるなら問答無用で排除できたが、相手が一般人の場合はそうもゆかず、結局庭まで入ることを許してしまったのである。
緑助は大きく唸り、心の中で頭をかかえた。
まさか、ただの村娘が奥まで入ってくるとは思ってもみなかったのだ。それも、有能な家臣がついていながらにしてである。
(今回は何事も起こらなかったから良かったものの、用心するに越したことはない。離宮の守りを強化した方がよいだろうな……)
緑助はあれやこれやと考えを巡らせながら湯飲みを二つ用意し、急須を傾けて茶を注ぐ。立ち上る湯気と共に、仄かな緑茶の青い香りが部屋の中に広がった。
「しかし、その娘は本当に大丈夫なのか?」
藤太に湯呑みを差し出し、緑助も己の分に口をつける。
疾風と藤太のことを信用していないというわけではない。しかし、どうしても不安を拭い去ることができずにいた。やはり、己の目で確かめてみない限りは安心できないようである。
「ええ。本当にただの村娘ですから、ご安心を」
出された茶には手をつけず、藤太はさらに続ける。
「少なくとも……道に迷って半べそかきながらうろうろ彷徨い、最終的にはヤケを起こして無理やり垣根に分け入ってくるような刺客、私は見たことがありません」
聞くや否や、緑助は口に運んでいた茶を盛大に吹き出したという。
明くる日。雪姫は宿屋の女将が包んでくれたおむすびをを持ち、御所を取り囲む塀を目指して歩いていた。
──昨日、疾風が去った後のこと。
雪姫が藤太に連れられて林を進み、抜けられるという塀のところまでやってくると、そこで彼がある一枚の板に手をかけ、ずらしはじめた。
「この板を、こうやって……」
塀は、何枚もの板を並列させてできているものであった。みしみしと怪しい音をたてながら、隙間を広げてゆく。
「あなたなら小柄ですし、大丈夫でしょう」
たしかに、それは雪姫がちょうど通れるくらいの僅かな隙間であった。
「ありがとうございます。では、これで失礼します」
礼を言い、一度は潜り込もうとするが、大事なことを思い出してとどまった。
「あ、あの、すみません! そういえば、明日はどちらからお邪魔したらよいのかをお聞きしていませんでした」
いかがいたしましょう? の意味を込めて雪姫が黒装束の青年を見上げる。
まさか、また垣根を越えて来るわけにはいくまい。疾風は本来入れない場所だと言っていたが、入口はいったいどこにあるのだろうか。
「あー……」
藤太は明らかに困ったという風に眉を寄せ、頭の後ろへ手をやった。
「そうですね……では、なんだかもういろいろと面倒なので、またここから入ってきてください」
そう言って、目の前にある板と板との隙間を指差したのであった。
そういうわけで、昨日の塀の前にたどり着いた雪姫は近くに人がいないことをよく確認し、教えてもらった板をずらして中へ滑りむ。
幸い、この抜け道は若草の北西側──雪姫達が泊まっている宿の割りと近く──にあり、目抜通りからはずれたこちら側は人通りも少なく、出入りする方としては大変都合のよい場所であった。
林の中をしばらく歩き、抜ければ、昨日と同じ風景が目の前に広がる。
「おはよう、雪姫!」
縁側に出ていた疾風が満面の笑みを携え、少女に向かって大きく手を振る。その笑顔は、昨日よりずっと眩しかった。
「ちょっと早くに来すぎてしまったかしら?」
朝から押し掛けてしまったので、少々心配していたのだが。雪姫の心配をよそに、疾風は目を細めてくすりと小さく笑った。
「そんなことないよ。むしろ早く来てくれて嬉しいし、それに丁度よかった。君に会いたくて、居ても立ってもいられなかった人がいるんだ」
会いたがっている人がいるとは、いったいどういうことだろうか。雪姫が首を傾げていると、
「なるほど。あなたが雪姫殿ですか」
疾風の背後、部屋から現れ縁側へと出てきたのは、背も腰も曲がっていない老年の男性。見るからに、身分の高そうな男性であった。
「緑助と申します」
(ろくすけ……)
その名前と、嗄れたこの声には確かに聞き覚えがあった。
(昨日の?)
「あ、はい! お初にお目にかかります。風見ヶ丘の、雪姫と申します」
雪姫は深く頭を下げ、緑助と向き合った。