第二十一章 知らせ 弐
もはや苦しいのか、悔しいのか、怒りなのか、安堵なのか。感情は混じり合って判別がつかない。形容もし難い。名前も付けられそうにない。
ただ言えるのは、この涙が疾風のためのものではなく、“疾風が雪姫にくれた涙である”ということだけであった。
薄情であるかもしれない、酷い人間であるかもしれない、と自分でも思う。
雪姫にとって、疾風は人生に影響を与えてくれた大切な存在であった。それでも、特別に関係の深い人間ではなかった。
共有した時間は一週間にも満たず、さらに一年以上もの月日が経ってしまっているせいで、顔もぼんやりとしか思い出せない。
両親や風見ヶ丘の親しい者達の死ならばともかく、友達とはいえ、たった数日一緒に過ごしただけの者のために涙を流せるほどの優しい心を、残念ながら持ち合わせてはいなかった。
死をそれなりに悼むことはできても、どこか他人事で。何より、あまりにも遠すぎるがゆえに信じることができずにいた。
雪姫がまた若草の御所の塀を潜れば、疾風が笑って迎えてくれるような気がしてならない。あんな紙切れ一枚で、彼がこの世からいなくなったということに実感が湧かない。
それでも、今まで溜め込むことしかできなかった感情の枷をはずすのには、十分であった。
雪姫には、ほんの少しのきっかけが必要だったのだ。
進まない氷姫捜し、刻々と迫る白き闇の恐怖、仲間に対する嫉妬や劣等感、自分に対する苛立ち、そして思いもよらない形で判明した絶望の事実。短い間に、いろいろなことがありすぎた。これ以上抱えきれなくなっていたところへ、疾風の死が少女の心を大きく揺り動かした。
そうして器の外にこぼれてれてしまった感情が今、涙となって雪姫の頬を伝っている。
だからこれは、この涙は、疾風の死を悲しんで流しているものではない。ずっと泣きたくとも泣けなかった雪姫に、疾風がくれた貴い涙。自分のための、涙であった。
「おい、雪姫!」
「ちょっと! お待ちなさいっ!」
「いきなりどうしちゃったの!」
「雪姫さん!」
後から追ってきた仲間の呼びかけにはっとし、雪姫は足を止めた。
疾風に関わることなのだ。仲間にも泣いている理由は言えなかった。心配だってかけたくない。できるかぎり普段どおりにしなければと、素早く目を拭って呼吸を整える。
「ごっ、ごめんなさい。若草のことだったから、つい、気になって」
明るく振る舞ったつもりであったが、上手く笑えている自信はなかった。現に少女の顔は引きつり、喉も震えてしまっていた。
心配そうにしている仲間達の中で、早智乃の吊り上がった双眸が雪姫を真正面から捉えて放さない。思ったとおり、彼女はこちらの変化を見過ごしてくれたりなどしなかった。
「雪姫。あなた、わたくし達に何か隠していらっしゃるのではありません?」
「ちょっと、早智乃」
禁める幼夢にかまわず、吊り目の少女は続ける。
「わたくし達には、言えないこと?」
違う。そうではない。言えるものなら言ってしまいたい。吐き出せるもなら、吐き出してしまいたい。しかし、そうするこてはできなかった。こればかりは、雪姫の一存で決めてよいことではないのである。
「ごめんなさい……」
雪姫は後ろめたさから視線を逸らした。
目の端で捉えた早智乃が、一瞬傷付いたような顔をした。そのような表情をさせてしまったことに胸が痛み、反射的に弁解を訴える。
「で、でも、違うの! みんなのことは、ちゃんと信用しているの! ただ、事情があって言いたくても言えないだけ。これは、私だけの問題ではないから……」
最後は静かに俯いた。
今さらでは、何を言っても言い訳がましくしか聞こえないのが悲しかった。信じていると口では言っても、結局のところは隠し事をしているのである。説得力も何もない。沈黙が恐くて堪らない。
「そう、なら仕方がありませんね。でも、雪姫。覚えておきなさい」
顔を上げた雪姫の鼻先に、人差し指が突きつけられる。今まで強められていた早智乃の表情と声色が、ふっと和らいだ。
「あなたに元気がないと、わたくし達もみんな、心配になってしまうんです」
聞いていた幼夢が、ふふっとおかしそうに笑い、小さく跳ねるようにして前に出た。雪姫の肩に手を置き、語りかける。
「早智乃はね、雪姫のことが大好きなんだよ。それは、私達だってみんな同じ。みんな雪姫のこと想ってる。言えない事情があるなら、無理には聞かない。だけど、これだけは覚えていてほしいんだ。私達は、いつだって雪姫の味方で、いつだって力になりたいって思ってるんだってこと!」
「まったく……わたくし達が望むのは、あなたの心からの笑顔なんですっ!」
早智乃が拗ねたように頬をふくらませ、下から軽く睨んでくる。が、小さく噴き出すと、困った人だと言わんばかりに微笑んだ。
「泣いてらしたのでしょう? だったら、我慢せずに思う存分泣いておしまいなさい。友達なんですもの。遠慮するのなんて、おかしくありません?」
「早智乃……」
早智乃だけではない。隣の幼夢も優しい笑顔で頷いた。
「幼夢……」
佳月も、粋も。そこにいる皆が、雪姫に笑いかけてくれている。
「さっさと吐き出して、すっきりしちまえよ!」
「そうですよ、雪姫さん。遠慮は無用です」
「佳月も粋君も、みんな……」
仲間の優しさで、再び目からから熱いものがあふれ出す。雪姫の視界は、あっという間にぐちゃぐちゃに歪んでぼやけた。
「もう、今の言葉、後悔したって知らないんだから……っ!」
雪姫は目の前にいる幼夢と早智乃の間にくずおれると、今まで押し殺していた声を霜白の冷たい鉛色の空に解き放った。
町を行く大勢の人達がこちらを見ている。しかし、そのようなことはどうでもよかった。
雪姫は風見ヶ丘を出てから、初めて声をあげて泣いた。