第十九章 冷夏 壱
──私はただ、頑張りたいだけ……頑張りたいだけなのに……!──
それは、心からの叫びであった。
夢と現の狭間。意識だけの世界で、雪姫の悲痛な思いに呼応するかのように、額に何かが触れる。あやすように、励ますように、ゆっくりと優しく撫でられる。
──応援してくれているの……?──
心地よい、柔らかな感触であった。形のない手が、叫びに応えてくれているように思える。「そう、なら頑張りなさい」と。
(──誰?)
ふと目を覚ますが、そこには誰もいなかった。雪姫は起き上がり、撫でられていたと思われる箇所にそっと触れてみる。
気のせいだったのだろうか。
部屋の中には闇が落ち、外からはしとしとと雨音が聞こえていた。
もしかすると、泣けなかった自分の代わりに空が泣いてくれたのかもしれない。そんな感傷的な思考がふと浮かんできて、少女は自嘲の笑みを漏らした。
それから布団や掛け物を畳み、部屋を出た。廊下を進んで回廊に出ると、遠方に、何かを見つめているらしい早智乃の姿があった。
「雪姫さん!」
はっとして振り返る。後ろの方から、雪姫を見つけた粋が顔を明るくしながら小走りでやってきた。
「もう起き上がっていいんですか?」
「ええ、お陰様で。心配かけてしまって、ごめんなさい」
「いいえ、気になさらないでください。幼夢さんから聞きました。暑いのが苦手だったんですね。前にも倒れたことがあるって、とても心配していましたよ」
それを聞いて、雪姫はひどく申し訳ない気持ちになった。具合が悪くなった時には遠慮せずすぐに知らせると約束していたのである。優しい彼女のことであるから、責任を感じているに違いない。
「あと、氷姫の幽閉の可能性についての件ですが、氷室様にお話ししておきました。朝廷で進言してくださるそうです」
「……そう。わかったわ。ありがとう。それじゃあ私、氷室様に助けていただいたお礼を言ってから戻るわね」
「はい。では、僕は皆さんに雪姫さんが目覚めたって知らせてきます」
「またあとで」と互いに手を振り、粋とはそこで別れた。
彼の姿が見えなくなったところで、上げていた雪姫の手がゆっくりと下ろされる。みるみるうちに、その表情も曇っていった。
(私、本当に役立たずだわ……)
話は全て終わっていた。自分などいなくとも調査は進む。世界も回る。それは当然のことであるし、いなくなって困るような人間でないということもわかっている。けれども、虚しかった。誰からも必要とされていないみたいに思えて、存在が無意味なように感じて。
何気なく早智乃がいた場所に目を向けてみると、彼女の姿はもうそこにはなかった。
雨が上がったのを境に、暑い日が続くようになっていた。
雪姫は仲間達から西側の涼しい部屋で大人しくしているように言われ、この数日間、暑さに ぼーっとしながら一人でいるのがほとんどであった。
幽閉の件だが、氷室は捜査をするにあたり規模が大きすぎることからずいぶんと手を焼いているようであった。時間が欲しいとも言っている。
幼夢達も、今までの報告や幽閉の可能性についての件で自国と文のやり取りをしていたり、また、詳しく話が聞きたいからと直接訪ねてくる役人らの対応に追われているため、周囲は浮き足立っていた。
皆が忙しそうにしている中、雪姫は自分だけが何もせずにいるのが申し訳なくてたまらなかった。別の意味で落ち着かない。だからといって無理をしてまた何かあったりすれば、迷惑がかかる。それも嫌で、結局のところ言われたとおりにしている。
頑張りたいのに、頑張れない。それが悔しかった。ただのお荷物になるために、わざわざ風見ヶ丘からやってきたわけではないのだ。
(何をやっているんだろう、私……)
縁側で横になっていた雪姫は、茫然と心の中で呟いた。
さわさわと葉と葉が擦れ合い、板敷きの床に零れた影が揺れ動く。こうして世界は移ろっているというのに、自分一人だけが切り離され、取り残されているように思えてならなかった。
(私はただ、頑張りたいだけ。頑張りたいだけなのに……)
どうしても気力が及ばない。薄く開かれていた瞳が、力無く閉じられてゆく。
泣きたいのに泣けない。虚しくて、苦しくて、辛いというのに、やはり涙は一粒も出てこなかった。
(どこにいるの、氷姫……)
取り巻く茹だるような熱気、瞼越しでも感じる鮮烈な夏の光。すでに朦朧としていた雪姫の意識は、暑さに融けていった。
「いいから逃げろ雪姫! 僕にかまうな! 早くっ!」
真っ暗闇の中。雪姫はいやいやと激しく首を振った。
傷口を抑えた少女の指の隙間から、明らかに人の域を越えた量の血が滴る。必死になって抑えるが、震える手は瞬く間にして赤い中に埋もれてしまった。
広がってゆくそれを、止めることができない。足元はすでに血溜まりになっており、ぬらぬらと妖しい光を放っている。
(死んでは、だめ……)
切に願っても届かない。手当ても意味を成さない。疾風の身体が白くなってゆくに連れて、彼の命も薄れゆくのがわかった。
このままでは消えてしまう。
(死なないで、疾風! お願い……)
「覚えていてほしいんだ、君に」
顔を上げると、弱々しい笑みとぶつかった。
「疾風という名の皇子が、この世にいたということを」
それを最後に彼の目から生気が消え、糸が切れたように腕がだらりと落ちる。
(い、や……!)
今の今まで人だった器が、雪姫の上にくずおれる。
(いやあああああああっ!)
──────ピシィッ!
それは、ほぼ同時といってよかった。亀裂の走るような音が直接脳に響き、雪姫の意識が白く飛ぶ。
突如割って入ってきた音に、びくりと身体が震え、目を見開いた。
(──なっ、何! 今の)
覚醒した途端、一気に暑気が体に纏わりついた。周りの景色も、先ほどと何ら変わっていなかった。縁側の床板に落ちた木漏れ日が、ただ静かに揺れている。
「……夢?」
ひどく汗をかいていたので、額から滴が流れ落ちる。それが暑さのせいによるものだったのか、夢のせいによるものだったのかは、わからなかった。
雪姫は混乱でしばらく放心していたが、誰かに尋ねてみようと思い立った。何か、ひびの入ったような音がしたのである。ずいぶんと大きな音であったから、誰も聞いていないというのなら、夢だったのかもしれない。
(ついでに厨に行って、水でももらってこよう)
気怠い身体を起こし、踏み石に足を下ろして履き物をつっかけた。
ふらふらと強烈な日差しの下に出る。焼けるような暑さに、意識だけでなく身体までもが融けてしまいそうになった。
ふと見上げた空は、憎らしいほど青い。
(あの雲が、天を覆ってくれればいいのに……)
まるで渦潮を思わせる、珍しい形の雲。霜白の山の上空に変わった形の雲を見つけて、雪姫はぼんやりとそんなことを思った。
やはり、夏は嫌いだ。
虚ろな目で、夏などなくなってしまえばいいのにと、心の中で高い空に向かって呟いた。