第三章 疾風 壱
札納めを終えた雪姫が、神宮の門の近くまで戻ってきた時のことであった。
積み上げられた書物を抱える、一人の巫女見習いの少女とすれ違った。
彼女は腕をぴんと伸ばし、書物を胸に預ける形で懸命に運んでいる。どうやら量が多いせいで前方が見えづらいらしい。顔を傾けていた。
(ずいぶんと重そうだけれど、大丈夫かしら……?)
雪姫が横目で気にしつつ通りすぎた、その数秒後──
「あっ」
背後で少女が叫んだかと思った次の瞬間、砂利の上にばさばさと書物の雪崩れる音がして、雪姫は思わず振り返った。
慌てて少女の元へ駆け寄り、しゃがんで散乱した書物を拾うのを手伝う。
「す、すみません! ありがとうございますっ」
少女が焦りの声をあげる。
まだ十歳ぐらいだろうか。彼女の身体は小さく、裾から覗く腕も細い。華奢な身体でこんなに大量の書物を運ぶのは、さぞかし大変だろうと思い、雪姫は声をかけてみることにした。
「大丈夫? これ、どこまで持って行くの? よかったら手伝うわ」
「で、でも……」
初めのうちは躊躇っていた少女だったが、一人では無理だと観念してその提案を受け入れた。
「持ってくるよう頼まれていた書物を、一気に運ぼうとしたから悪かったんです」
少女が、しょんぼりと肩を落としながら反省する。
巫女たちの寄宿舎は、先ほど雪姫が札納めを行った本殿よりもさらに奥へ入ったところにあるのだという。
一般の者には立ち入りを許されぬ塀の向こう側。今、雪姫はそこにきていた。
それにしても、本当に広い敷地である。門の近くからここまでの距離を、しかも重たい荷物を持った状態で一人で来させるのは、酷であるように思えた。やはり手伝って正解だったと、雪姫は心の中で少女に声がけした先ほどの自分を誉め称えた。
「ここです」
寄宿舎に上がって中に書物を運び終えると、少女は雪姫に対して「本当に助かりました」と、きれいに腰を折った。
「あっ、門のところまでお送りします!」
土間に下りた雪姫を追いかけて少女が再び草鞋を履こうとしたので、慌てて手を振り、それを制す。
「いいの、私のことは気にしないで。それに、せっかくここまで来たのに、また往復するとなると大変でしょう?」
そう答えて笑いかけると、少女は申し訳なさそうに何度何度も頭を下げる。そのあとも、雪姫が寄宿舎の角を曲がり、姿が見えなくなるまで見送ってくれた。
(しっかりしていて、いい子だったなぁ……)
雪姫は、ほこほこと温かい気持ちで記憶を頼りに来た道を引き返す。
(ええと、確かこっちの道だったわよね)
(次にここの角を曲がって……)
(それから、この建物の前を通って……)
ところが。最初のうちはよかったのだが、だんだんと記憶が曖昧になり、
(たしかこっちだったような……)
(あ、あら? こっちだったかしら?)
いつの間にやら知らない場所へと入り込み、
(…………)
(もしかして私、迷った……?)
気付けば立派な迷子となっていた。
何しろ敷地が広く、そのうえ似たような道や建物が多いのである。寄宿舎までは少女がいたので何の問題もなかったが、こうして一人で歩いてみると、道は思った以上にややこしかった。
雪姫は今さらながら、送ってもらわなかったことを大いに悔やんだ。
はっとし、明るい気持ちに切り替えようと、勢いよく首を振る。
(だめだめ! 今さら後悔してどうするの……!)
ぐっと胸の前で拳を握り、気合いを入れる。
何とかなるはずだと自分に言い聞かせ、再び歩きはじめる。が、しかし。やはり歩けども道は分からない。
(だ、大丈夫。大丈夫よ、きっと。なんとかなるわ!)
そう心の中で励ましてはみるものの、動揺は一向におさまらず、冷や汗も止まらない。
うろうろと彷徨っているうちに余計に帰り道は分からなくなってしまい、道を尋ねたくとも人気がないため、それも叶わない状況である。
(こ、こうなったらもう────ヤケよっ!)
そしてついにはヤケを起こし、雪姫はとにかく直進しはじめた。そうすればいつかは塀に突き当たり、それに沿ってゆけば出口にたどり着くことができる。そう思ったからである。
早く外へ出たいというその一心で、垣根で道が塞がれていていようとも無理矢理分け入った。林の中も、ただまっすぐに進んでゆく。
普段ならば絶対にこのような真似はしない。しかし、今回だけは特別である。臆病な雪姫も、帰るために必死であった。
林を抜けると目の前に、ぽっかりと広い庭が現れた。庭といっても、野原に小さな池と樹木、そして植物がほんの少し植えてあるだけの質素な庭であった。
すると。
「どうしたの?」
突然声をかけられ、雪姫の心臓は跳び上がる。誰もいないと思い込んでいたので、ひどく驚いた。
振り返れば、すぐ近くの建物の縁側からこちらをじっと見つめる者がいた。どうやら柱に寄りかかって座り、書巻を読んでいたらしい。
(うわぁ、綺麗な人……!)
高く結い上げられた亜麻色の長い髪、真珠のような肌、ほっそりとした面立ち、そしてこちらに向けられた穏やかな瞳。絵から飛び出してきたような美人とは、まさにこのことであった。
この者の持つ容姿は、本人が纏っている良質な品々──藤色の括袴や純白の狩衣、首飾り──を霞ませてしまうほどに端麗であった。歳は、雪姫とそれほど変わらないくらいであろう。しかし、自分とは大違いのこの麗人に、思わず見蕩れてしまった。
「もしかして新しい女中?」
いつまでもつっ立ったままでいたので、再び麗人が声をかけてきた。
「あっ、いえ。そうではなくて、道に迷ってしまって……」
その者は一瞬目を丸くしたが、口許に手を当てて何やら考える素振りをみせたあと、「そこ」と、ちょうど雪姫が歩いて来たところよりも、左にずれたところを指差して言った。
「まっすぐ行くと大きな椚の木があるから、その近くの塀を調べてごらん。ずらせば隙間から外に出られるよ」
それを聞き、雪姫の今まで情けなかった顔が安堵により綻んだ。
「ほ、本当っ? 私、ちょうど外へ出たかったの!」
「それはよかった。でも、このことを誰にも言わないと約束してほしい。ここは本来入れない場所だから、もしそれが知れたりすれば、君が大変なことになってしまうから」
「はい、わかりました。誰にも言ったりしません。約束します」
頷き、素直に応じる雪姫であったが、言った後からサーッと青くなった。
(ど、どうしよう……きっと垣根を越えたのがまずかったんだわ)
今さら焦り出す少女を見て、謎の麗人は桜色の唇に笑みを浮かべた。
「垣根を越えて来たの?」
「え? ええ。もうどうしようもなくて、ヤケを起こしてしまって……」
恥ずかしさのあまり、雪姫は目を泳がせながら俯いた。しかし次には、がばりと勢いよく顔を上げ、真っ赤な顔で弁解する。
「で、でも、普段は絶対にそんなこと、しません。本当ですっ!」
その姿があまりにも真剣かつ必死だったので、麗人は堪えきれなくなり、笑いだした。
美人は、笑っても美人である。この時、雪姫は自身が笑われていることも忘れて、目の前の笑顔に見入ってしまったという。
「ごめんごめん、笑ったりして。君はこの近くに住んでいるの?」
目尻に溜まった涙を軽く拭いながら、麗人が雪姫に問いかけた。
「いいえ。私は風見ヶ丘から来たの」
しかし相手は何の反応も示さない。不思議そうな顔をし、小さく首を傾げただけである。
「……知らない? お米、風見ヶ丘が一番美味しいって評判なのよ」
それから二人は、正午の鐘が鳴るまでしゃべり続けた。