第十七章 霜白にて 参
使いと別れた雪姫達は、屋敷の者に清晏の名を出すと大広間へ通された。上座には、雪の意匠を円で囲った紋章──霜白皇家の紋章を白く染め抜いた、紺色の幕が掛けられている。
幾何も経たたぬうちに、烏帽子を被った男性が入ってきた。涼やかな眼もとに埋め込まれた漆黒の瞳と、背に流して下方で結ばれた髪が白地の狩衣によく映えている。歳は雪姫よりも五、六歳は上と見え、落ち着いているだけでなく聡明であることが雰囲気からも窺えた。
「待たせてすまない。私がこの屋敷の主、氷室だ」
さっと上座に腰下ろし、いかにも皇家の人間といった出で立ちで氷室は雪姫達を見やる。内外共に格ある男性であることが、この時点で伝わってきた。疾風にしろ幼夢と佳月にしろ、少々変わっていたため、雪姫が出会った皇家の人間の中で一番それらしかった。
「若草より参りました、雪姫と申します。霜矢の曾孫にあたります」
「清晏殿から話は伺っている。この屋敷に居れば安全だ。捜索の拠点に使うといい」
氷室が表情を和らげたので、お陰で雪姫の緊張もいくらか解ける。
「ところで、どのように氷姫を捜すつもりでいるのか聞かせてほしい。急を要するようで申し訳ないが、これから行かねばならないところがあってな。君達には、できるだけ力になりたいと思っている。必要なものや協力できることがあれば、何でも言ってくれ」
「ありがとうございます。実は、氷姫の足取りを順番にたどってゆこうと思っています。地道な調査になりそうですが、他によい手立てもなさそうですし……」
話をするや、氷室が眉を顰めた。
「そうか……いや、実はその調査なら我々の方ですでに行ってしまったんだ。この町の一番近くにある村の情報が最後で、その先はどう探してみてもわからなかった」
「そうだったのですか……」
考えが甘かったらしい。答えは先に出ていたようである。たしかに、たくさんの人間が全力を尽くしているのだ。雪姫達が思い付くようなことなど、とうに誰かが手を打っていたとしても、少しもおかしくはない。
「とりあえず、この件についてはまた明日考えてみてはどうだろう。今日のところは休んで、旅の疲れを癒してくれ」
沈黙してしまった雪姫への気遣いもあってか、話が打ち切られた。
「雪姫、そうさせてもらいましょう?」
「ええ」
「では、ご案内いたします」
後ろで控えていた家臣が立ち上がる。その者に連れられて廊下を歩きながら、雪姫はどうすればよいのかと思考を巡らせていた。また、わからなくなってしまった。
(私にできることは、何?)
「落ち込むことないわよ、雪姫」
しょぼくれていた少女の肩に、幼夢の手が置かれる。
「氷姫の足取りが途絶えた場所がわかったってだけでも、一歩前進じゃない」
ねっ? と覗き込み、笑いかける。
「……そう、よね」
頷いてみせると、満足したのか幼夢は笑みを深くし、雪姫の後ろに回って背中を押しだした。
「ほらほら、案内の人に遅れちゃう! 行きましょ!」
押されて歩きながら、雪姫はぼんやりと考える。
(どうしてかしら。私は、幼夢のことが大好きなのに……)
素直に肯定することができない。
こうして毎回彼女の前向きさに救われていながら、その一方で釈然としない思いを胸の奥底でくすぶらせていた。太陽のように明るい笑顔も、温かい手も、優しい気遣いも、嬉しいのに憎らしく思ってしまう。
(そんなの、嫌なのに……)
自分では、どうすることもできない。
氷姫を捜すと言い出した本人が、仲間を先導してゆくどころか助けられるばかりでいる。その事実が、何もできないことを嘆いていた雪姫の心に、さらに大きく影を落としていた。
こうして芽生えてしまう負の感情を抑える術も、どうやって整理をつければよいのかも、わからない。向き合うことができない今、雪姫はとりあえず感情を飲み込み、ひた隠しにしている。そうして幼夢達だけでなく自分をも欺き、その場をやり過ごすことしかできないのであった。
「あー食った食った」
「私もー! もうお腹いっぱい」
後ろに両手を付き、畳の上にだらしなく座っている二人がまさか次期緋那の皇位継承者であるとは誰も思うまい。
人様の屋敷で大股開きとはいかがなものか。雪姫はつっこみを入れるべきかどうか迷ったが、二人の気取らないところが良さでもあるために言うに言えず、苦笑するに止まった。
「寝床はある、風呂もある、飯は美味くて雪姫も安全とくれば、文句ないぜ」
な? と不敵な笑みで反応を求めてきた佳月に対して、雪姫は慌ててこくりと頷いた。
「でも、こんなによくしてもらえるだなんて……なんだか申し訳ないくらい」
「受け入れてくれた氷室様にも、紹介状を書いてくださった清晏先生にも、感謝しなくっちゃね」
「ええ、本当に」
幼夢の言うとおりである。氷室は屋敷の二部屋をそれぞれ男女に分けて滞在用に貸し与えてくれた。それだけでなく、湯や食事まで付けてくれるという。ここでなら、かなり快適に氷姫捜しができるだろう。
「お腹いっぱいになったら、今度は眠たくなってきちゃったわ」
幼夢が欠伸を噛み殺し、目をこすりながら今度は大の字になってくつろぎはじめた。
「おーい、そのまま寝たら牛になるぞー」
呆れ顔の佳月が、寝転がる少女の額を軽くはたく。
「あーっ、ちょっとー! 今ので頭蓋骨、割れたんだからね!」
「そうか。ならもっと粉々にしてやる!」
幼夢がむくりと起き上がり、佳月が口の端を釣り上げる。それを合図にはじまってしまった攻防戦。遊び出した二人から視線を外し、雪姫は乗り出していた障子窓から夜空を見上げた。
(やっと、はじまるんだわ)
ずいぶんと長い間旅をしてきたように思えるが、まだはじまってすらいなかったのである。これまでの時点でかなりの苦戦を強いられているのだから、先は今まで以上に厳しくなると覚悟しておかなければならなかった。
どうなってしまうのかは、本当にわからなった。いろいろなことを決心してここまで来たはずであるのに、雪姫の心はひどく揺らいでいる。もちろん、霜白に来たことを後悔してはいない。けれども、それは不安ではない、ということにはならない。
(このまま溶けてしまえればいいのに……)
精神が弱りつつあるせいか、霜白の夜空がやけに沁みた。雲はどこにも見当たらず、月も星も、鮮やかなまでに濃色な闇も、全てがただひたすらに美しく感じられる。
雪姫は静かに目を閉じ、息を吸い込んだ。
夜空に溶けることなど出来るはずもないけれど。せめて、想像の中だけでもよい。一瞬で構わないから、雪姫は置かれている状況も、立場も、不安も、飲み込んだ感情のことも、すべてを忘れてしまいたかった。
「雪姫ー! 寝よ寝よ!」
「ええ。今いくわ」
声がかかり、現実に引き戻された。雪姫は慌てて障子窓を閉め、立ち上がる。
寝て覚めれば、明日。
明日など来なければいいと、ほんの少し、本当に少しだけ、そう思った。