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氷雪記  作者: ゐく
第二部
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第十六章 追手 伍

「いたぞーっ!」


 篠塚が現地へ(おもむ)き指揮をはじめれば、疾風が追い込まれるまでに時間はそうかからなかった。的確な指示により少しずつ逃げ道は塞がれ、川原の方へ誘導されてゆく。


「そこにいる者、なぜ逃げる。止まられよ」


 ついに、ここまできてしまった。

 走っていた疾風は、岩に飛び乗ったところでぴたりと止まる。しかし、それは篠塚に従ったのではなく、もうこれ以上前に進めなくなってしまったからにすぎないのであった。


 切り立った岩の上で、背を向けて肩で息をしたまま、少年は最後の抵抗とばかりに押し黙る。篠塚の方も、それ以上の追求をしてはこない。

 眼下に広がる川は、昨日降った雨のせいで氾濫(はんらん)していた。濁った水は荒れ狂った大蛇の如く、激しくうねりながら しぶきをあげている。


(ここまでか。だが……これでいい)


 そう、これでよいのである。


 疾風には、早かれ遅かれ、こういう日がくるとわかっていた。そしてこの先、自分が生きていれば争いが起こることも、それが若草にとってよくないことであるということも。それでも、命を差し出すような真似はしたくなかった。(やす)々とわたしてしまうのと、抵抗した結果取られてまうのと、同じく無くすのならば後者を選ぶ。

 だから決断したのだ。最後の最後まで抗がい、自分にできる精一杯のことをするのだと。極限まで頑張って、それで結果が駄目であるというのなら悔いはない。草助もこれに同意してくれた。


 疾風が呼吸を整え、ゆっくりとその身を返せば、細く吊り上がった双眸(そうぼう)とかち合った。皮肉なことに、追われているはずの疾風が追っている方の篠塚を見下ろした。


「やはり疾風様ご本人でしたか」


 篠塚はさして驚かなかった。疾風は目を冷たく光らせ、薄く笑う。


「……人違い、と言ったら?」


 挑発であった。

 果たして、居直ったことにより成せる所行(しょぎょう)なのか。この追い込まれた状況でも毅然としていられるのである。篠塚は、見上げたものだと密かに舌を巻いた。


「ご冗談を。私は貴方様を存じております。さらに申し上げますと、この私に対して堂々としていられる者も限られておりますゆえ」


 篠塚は独特の空気を持っていた。口調だけに留まらず、人相や所作も含めて居るだけで相手を威圧し、緊張感を与える。良くも悪くも真面目であり、融通(ゆうずう)のきかぬ堅物。自分にも他人にも厳しい、そういう男であった。


「そうか、うっかりしていたな。他人を装うのなら、ここは怖がるべきだった」


 疾風は軽口をたたくが、やはりその目は少しも笑っていない。


「はて、怪しい者は二人との報告。もう一人はどうなされましたか?」


「もう一人? さあ、知らないな」


 疾風は肩を大袈裟(おおげさ)にすくめ、白々しさを強調してみせた。しかし篠塚はぴくりと片眉を動かしただけで、その表情は相変わらず乏しいまま。厳めしい顔つきは崩れる気配をみせない。


「……なるほど。ではどのようにして若草から抜け出たのか、今までどうなされて」

「気になるだろう? でも口を割る気はない。あきらめてくれ」


 疾風はわざと言葉をぶつけて冷たく言い切り、にこりと笑う。


 思っていた以上に強情な男のようであると悟った篠塚は、言葉を飲み込み、黙った。彼が口を割らないというのなら、本当にそうなのであろう。強い意志……いや、意地をもって。


「少々見くびっていたようですな。この分ですと本当に口を割らぬとお見受いたしまする。ともなればこれ以上は時間の無駄。調べは、こちらでつけることにいたしましょう。もう貴方様に用はございません」


「そうか。ならば帰してくれ」


「そういう訳にはまいりませぬ」


「残念だな」


「これは帝の(めい)。お恨みなされまするな」


 篠塚の手が猛然と振られる。


「やれっ!」


 号令がかかると共に、後ろで控えていた兵士や盗賊に扮していた者達が一斉に襲いかかってきた。

 疾風は反射的に手を腰にやりそうになるが、そこに護身刀がないことを思い出した。直したばかりで使うことが(はばか)られたため、草助に預けたのである。

 疾風は、じりと地を固く踏み、身を低くして構えた。


(抗ってやる……!)


 だって、約束したのだ。風見ヶ丘の少女と。



 正面から斬りかかってきた敵の刀をかわし、そのまま腕を(ひね)って奪い取る。疾風の一連の動作は目にも留まらぬ速さで行われ、次の瞬間からも間髪入れずに襲ってくるのを奪ったそれで迎え討った。

 断末魔(だんまつま)の叫びを上げる間もなく事切れた兵士を払いのけ、次の兵士に向かって刃を振り(かざ)す。

 信じられないほどに素早く、また無駄のない動きであった。

 後がないだけに疾風の神経は研ぎ澄まされ、かつてないぼとに集中している。今の彼の強さは尋常ではない。返り血を浴び、長い髪を乱し、刀を振るう姿はさながら修羅であった。


 しかし、多勢に無勢。どんなに武術が優れていようとも、傷から(まぬが)れることはできなかった。動きもだんだんと鈍くなり、押されはじめる。

 攻防が長引けば長引くほど、疾風にとっては不利となる。残された陣地はあと(わず)か。これ以上は下がれない。


 体力も、とうに限界を迎えようとしていた。いま彼を支えているのは、精神力のみである。

 ただでさえ刀は重い。手にも力が入らなくなりはじめ、構える腕が無意識に下がる。隙が生じ、そこへ一人の野盗に扮した兵士が踏み込んできた。


 速い。


 他の者と比べ、桁違(けたちが)いに手練(てだ)れていた。

 身を翻してかわそうとするが、遅かった。上からくるかと思われた切っ先は、予想に反して脇腹から肩口へと振り上げられる。

 刃の軌道にしたがって(ほとばし)る赤。斬られた瞬間、疾風は大きく目を見開いた。


 手から滑り落ちた刀が、がらんと音をたてて岩を叩き、平行を失った体は宙へ踊る。落下する直前、疾風は自分を斬った兵士と目が合った。


「────」


 交わされていた視線が急に引き剥がされ、ぐるりと天が大きく回る。次にはもう、視界いっぱいに星空が広がっていた。


 この日はちょうど、満月であった。


 ああそうか、だからこんなにも明るかったのだと、悠長にも思う。

 辺りの様子も、やけに緩やかに見える。

 近付いてくるのは荒ぶる水の気配。疾風は背にそれを感じながら、遠のいてゆく月に向かって手を伸ばした。


(雪姫……)


 ──もうすぐだ。


 掴んだのは(くう)。しかし、浮かべたのは安堵の表情であった。

 いつ殺されるかわからない、常に恐怖と隣り合わせの人生。この呪われた人生が、やっと終わる。


(もうすぐ、君に逢える……)


 疾風は微かに笑みさえ浮かべ、眠るようにゆっくりと、迫りくる衝撃に備えて目を閉じた。





若草の皇子、疾風

享年十八





(わずら)っていた病のため、亡くなる……か」


 笠を目深に被っていた男が、ぽつりと呟いた。

 背格好からすると、どうやら年の頃は十八、九といったところであるらしい。

 桔梗(ききょう)色の衣に銀鼠(ぎんねず)の袴を着ており、旅人の(なり)をしている。しかし、腰には大小二つの刀が帯びられているため、どうやらただの旅人ではなく、訳ありであるように思われた。


「お若いのに、気の毒だったねぇ」


 独り言に対して返事があったことに、少々驚いた。声の主は、近くにいた老人であった。川縁にしゃがみ込み、花を流そうとしている。

 男は自身の手にも握られている白い花に目を落とし、「そうですね」とだけ返した。


(疾風様、か)


 男は、数珠を手に拝みはじめるか細い背中をぼんやりと眺めたあと、空を仰いだ。


 つい先日、若草の皇子が病で亡くなったと町に触れ書きが出された。そのため、都からさほど離れていない場所にあるこの川には、ちらほらと(とむら)いをする人の姿があった。

 あまり知られていない人物というせいもあり、他の皇家の者と比べて足を運ぶ者は極端に少なくはあったが。


(こうして律儀(りちぎ)な者もいるのだな)


 川は春の陽気な日差しをきらきらと弾かせながら、同じ速度で流れ続けている。

 人々は知るはずもない。この時すでに、若草の皇子が篠塚の手に落ちてから数ヶ月も経っているということを。


「よいこらせ、と」


 老人は立ち上がり、こちらに軽く会釈(えしゃく)すると杖をつきながら土手を上っていった。

 浮かべられた白い花の束は、気付けば遠くへ流されていた。


 誰もいなくなった岸辺に男は一人佇み、腕を伸ばすと、その高い位置から花を放る。

 笠の影から僅かに覗かせた瞳は、どこか突き放したように冷ややかであった。


「疾風様、どうか安らかに」


 無機的に小さく呟いたあと、男は笠を深く下げ、その場を去ってゆく。



 季節は春。

 これはちょうど、風見ヶ丘の少女が氷姫を捜すために旅立ってから、しばらくのことであった。

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