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氷雪記  作者: ゐく
第二部
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第十六章 追手 参

 ──熱い。


 息を切らせ、疾風がよろめきながら木の幹に手をついた。彼の後ろを走っていた草助も、木の根元にどさりと腰を下ろすと、上向いて空気を貪る。


 疾風の口内に血の味が広がる。呼吸の度に喉の奥が焼けるように痛む。苦しい。これだけ長い時間走り続けたのは、生まれて初めてであるかもしれない。酷使した両足は、がくがくと小刻みに震え、気を抜いてしまえば崩れ落ちるのではないかと思われた。

 初めのうちは羽織りを持たずに出てきてしまったことを後悔していたが、今この火照った体には秋の夜の冷たい空気が心地良かった。


 どうにか追手は()いたものの、この場所に長くはいられない。見つかるのは時間の問題である。


 木の葉が、はらりとその身を踊らせながら、屈んだ姿勢のままの少年の横を(かす)めていった。

 乾いた音をたて、舞い降りてきたそれを足元に認め、疾風は さてどうしたものかと目を閉じ、考えを巡らせはじめた。

 鼓動はうるさいほどに鳴り響いている。「大丈夫だ、きっと手立てはある。考えろ、冷静になれ」と自分にそう言い聞かせながら、高ぶった心を鎮めにかかった。すると、少しずつその音は遠退(とおの)いてゆき、辺り一帯へと意識を配れるよう変わっていった。集中しはじめたのである。


 意外にも、夜の森には様々な音があった。

 これまで周囲を満たすのは静寂だけかと思っていたが、実際は違っていた。

 虫の声、時折落ちる木の葉の音。さらには、奥の方から微かにではあるが、たしかにザーザーと雨が降った時のような音が聞こえてくる。おそらく、近くに川があるのだ。


「…………」


 知識、経験、周囲の状況、記憶。疾風は今持てるすべての情報を駆使し、思考を巡らせていた。


 まだ知りたいことがたくさんある。やりたいことがたくさんある。死にたくない。何より──死ぬのが怖い。


 疾風は奥歯を噛みしめ、幹に爪を立てた。指先が白むほどに力を込めれば、ごつごつと冷たく湿った樹皮が、より深く肌に突き刺さる。


(そうだ。僕は、死ぬのが怖いんだ……)


 閉じていた瞼をゆっくりと解き、疾風は地を見つめたまま、ふっと微かに笑みを漏らした。憂いを帯びたような、鼻で笑ったような、そんな笑みであった。


 その時はその時だと、ずっと死を覚悟して生きてきたはずであるのに、いざとなってみるとやはり命が惜しい。今になって生に執着している自分が、ひどく滑稽(こっけい)に思えた。


 本当に今さらである。今まで自分一人の血で争いが起きずに済み、多くの人が傷ついたり命を落としたりする必要がなくなるのであればそれで良いと考えていたが、結局はまだ死にたくないと訴える心に素直に従い、こうして全力で逃げている。結局は、己の欲望に忠実でいる。

 緑助は疾風のことを、優しいだとか冷静だとか、理性の人だと言って高く買ってくれているようだが、実際は違う。自分はそんなに出来た人間ではない。この男の正体は、欲望に忠実な諦めの悪いただの凡俗。多くの人のことよりも己のことを優先させてしまうような、ひどく身勝手な人間であった。

 こんなにも自身が善や高潔さといったものから程遠い存在だったのだと、今になって改めてそんなことに気付かされたのだから、笑える。


 疾風は腕に力を入れ、幹を押し、ゆらりと立った。


「草助」


 粗かった呼吸は安定しはじめていた。足の震えもすでに止まっている。しかし余裕がないため、笑みは引きつり声もぶれた。それでも、瞳だけは揺らがずに爛爛(らんらん)と光を放っていた。


「頼みがある。お前にしか頼めない」


 忍びとしてではなく、草助個人に対して言っているのである。返事に(きゅう)した草助は、居心地悪そうに目を泳がせると頭を掻いた。


 視線がかみ合わないまま、二人の間に沈黙が流れる。


「……お前、何かまずいこと考えてんだろ」


 草助がぼそりと吐き捨てるように指摘してやると、図星だったのか、疾風は何も言わなかった。暗闇の中、少し困ったような、そうでなければ申し訳なさそうな、曖昧な表情で佇んでいる。


(やっぱりそうか……)


 口の中で舌を打ち鳴らし、草助は呆れた。


 枝から離れた枯れ葉が、重力に(なら)い、くるくると螺旋(らせん)を描く。落ち葉越しに草助が疾風を軽く睨みつけるが、相手はまったく動じなかった。

 おそらく、この少年の考えていることは緑助の意向に大きく背くことになる。疾風に従えば、それは頭首の(めい)に刃向かうのと同等の意味を持ってしまう。


(くそっ、緑助のジジイに殺されろってか。冗談きついぜ)


 疾風は本気である。何を考えているのはわからないが、腹を(くく)ったのだ。ならば、自身は──と、草助は息を吸い込み、座ったままいつものように不敵な態度で腕を組んだ。


「で、どうしろって?」


 結局、草助は情というものを捨て切れないのであった。

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