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氷雪記  作者: ゐく
第二部
34/101

第十五章 消えた皇子の行方(後) 壱

 一人の少女が小高い丘を駆け上っていた。

 こんなにも熱く呼吸が苦しいのは、走っているせいだけでないということを、彼女自身もよくわかっていた。

 心臓がドキドキと脈打つ。名を呼ぶだけで、また鼓動が速くなる。


「疾風様」


 丘の上には柿の木が一本あり、決まって彼はこの場所にいた。いつも一人、幹の根元に腰掛けて小刀を眺めているのだ。


「疾風様、草助様がお呼びです」


「ありがとう、霞殿。今行くよ」


 返事をし、疾風は小刀を鞘へ納めると、颯爽と立ち上がる。

 彼の髪や着物は埃じみており、それは村の生活に対しての興味から進んで畑仕事や家畜の世話を手伝っているからで、他の者達と同じく朝早くから起き、仕事をしているからなのであった。

 風貌(ふうぼう)はもうすっかり農民であるのに、ちょっとした仕草の中に見え隠れする気品と手に持つ黒漆の小刀が、彼の格好にひどく不相応であった。


「いつも眺めていらっしゃるのですね」


 一緒に丘を下りながら、霞が疾風に話しかける。並んで歩いていたところ、こちらに顔を向けてきた疾風と目が合い、霞の頬が一瞬にして紅く染まった。今までの中で、距離も一番近かった。霞は「その……」と口ごもり、


「小刀を」と合っていた目を遠慮がちに()らす。


「ああ。僕が今生きていられるのは、これのお陰だからね」


 疾風は腰に差した小刀に視線を落とし、手をやりながらそれに向かって微笑んだ。


 草助が若草の離宮へ駆けつけた時、すでに彼の右手には小刀が握られていたという。さらに緑助からもそれについての情報は何一つ回ってきておらず、いったい何時、どこから出てきた代物であるのか、誰も知らない。

 わかっていることは一つ。これが疾風の命を救った、ということだけであった。


「護身刀というんだ」


「ゴシントウ、ですか?」


「そう。友達からもらったお守りでね」


 彼の言う友達というのは、離宮に迷い込んできた村娘のことを指していた。


「札納めのため、風見ヶ丘から来たという娘のことですね。確か……名を雪姫といったでしょうか」


 疾風は一瞬目を丸くした。「名前まで知れ渡っているのか……」と独りごち、苦笑する。どうやら村娘が迷い込み、出入りするようになったということまでしか報告されていないと思っていたらしい。


「予定より一日早く風見ヶ丘へ帰ることになったからと、夜にわざわざ来てくれて。その時にもらったんだ。直後にまさか刺客が攻めてくるとは思ってもみなかったから、本当に助かった。だから雪姫は、僕の命の恩人なんだよ」


 こちらに顔を向け、疾風はにこりと笑う。そして再び前方へ続く道に視線を戻した。


「そうだったのですか……」


 霞も、それ以上の言及はせず疾風に(なら)って前を向いた。

 例え恋愛感情ではないにしても、他の娘の存在が彼の心を大きく占めているというのは、想いを寄せている方としては少々面白くない。しかしそのようなことなど、本人はこれっぽっちも気が付いていないのであろう。彼の瞳は今、前方に続く道だけを映している。


 沈黙が続く。二人の間には、土を踏む音だけが静かに響いていた。





「相変わらず、眺めてたんだろー?」


 縁側の前に立ち、疾風が帰ってくることころを待ち構えていた草助は、戻ってきた少年に向かって腕組みしたまま顎で護身刀のことを指し示してみせた。

 図星を突かれた疾風は、薄笑いを浮かべている彼に口を尖らかせ、そっぽを向く。


「いいだろう、別に」


「まぁいい。聞け。お前にいい話がある」


「いい話?」


 疾風はちらりと瞳だけを動かし、耳を傾けた。


「噂で聞いたんだが、この近くの村に腕のいい鍛冶屋(かじや)がいるんだとさ。もしかするとお前の小刀も、元通りにしてもらえるかもしれねぇぞ」


「それ、本当なのか!」


 聞くや否や、疾風は身を乗り出して瞳を輝かせた。対する草助は変わりなく、(ひょう)々としている。


「んなこと知るか。本当だかどうだかは、行って確かめてみねぇとわからんだろ」


 言われてから疾風もはっとし、冷静になって一歩退()く。たかにその通りだと頷くと、極上の笑みを作った。


「じゃあ行こうか噂を確かめに今すぐ草助」


 一口に言い、草助のくたびれた着物の袖をぐっと鷲掴(わしづか)んだ。笑みには(いな)やとは言わさせぬぞという、無言の圧力がかけられている。


「ご、語順がめちゃくちゃじゃねぇかよっ! ええい、離せ離せっ!」


 かえって笑顔が恐ろしい。草助は一瞬ひやりとするも、すかさずツッコミを入れ、大騒ぎしながら少年の手から逃れた。


「ちょっと待て! 話を聞けって!」


 さらに数歩あと退(ずさ)る。疾風はもう襲撃してはこなかった。深追いする気はないらしい。

 草助は、やれやれと大きく息をついてから懐を探ると、文を取り出した。


「帝が、山吹とこの周辺の地域を捜索圏内から外したんだとよ。ジジイから連絡がきた」


 そう言って、ひらひらと紙を振ってみせる。


「だからもう安心していいだろ。行って、好きなだけ()いでもらってこいや」


 草助は見せていたものを乱暴に胸元へ押し込み、くしゃりと笑った。


「草助……!」


 感激のあまり飛び付こうとした疾風であったが、寸でのところで制された。草助の大きな手のひらが少年の目の前に突き出される。


「ただし! 村の奴、適当に誰か連れてけ。俺は用事があって行けねぇから」


 え、と疾風の端整な顔つきが不服そうに歪んだ。


「捜索の手は退()いたんだろう? 一人で行っては駄目なのか?」


 左腕の傷はとうに完治しており、万が一山賊に出くわしたとしても、やられるどころかむしろ返り討ちにできるぐらいの実力は備わっているという自信もあった。武術は緑助直伝なのである。腕を信用されていないとなると、かなり心外であった。


「個人的には別に構わねぇんだが、もしお前を一人で行かせただなんてことがジジイに知れたりしたら…………俺が殺される」


 最後、心持ち声が低くなったような気がするのは、おそらく気のせいではないのであろう。彼の眉間には深く皺が刻み込まれている。何より、目が本気である。


 疾風は苦笑し、たかにそれは可哀想だと、やむなく誰を連れて行こうか考えを巡らせはじめた時であった。ちょうど、畑仕事から帰ってきたらしい一人の少年が、家の前を横切ろうとしているのが目に入った。


椎奈(しいな)!」


 突然呼び止められた短髪の少年は、びくりと肩を震わせた。

 振り返り、近づいていくる疾風に対して彼はいったい何事かと目を見開く。


「疾風様? どうかされたんですか?」


「ちょうどよかった。椎奈、実はこれから行きたいところがあるんだ。でも、草助には用事があるらしくて。すまないが、ついてきてはもらえないだろうか」


 疾風は顔の前で手と手をを合わせ、頼む、と懇願する。

 椎奈は歳が一つ上と近く、また霞の幼馴染みということもあって、一方的にだが疾風にとっては他の若者達よりも話しかけやすい存在なのであった。


「護衛をつけて行かないと、草助が緑助に殺されてしまうんだ」


 半分は冗談だが、半分は本気である。


「は、はぁ……? まぁ、別に構いませんが。いったい、どちらまで?」


 呆けながらも要望を受け入れてくれた椎奈に、草助が説明する。


「腕がいいって噂されてる鍛冶屋、あっただろ。あそこへ行きたいんだとよ」


「ああ、頼む」


 そうして疾風は椎奈と共に、さっそく近くの村まで出かけることになった。

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