第十四章 消えた皇子の行方(中) 肆
「藤太! どうしてここへ?」
久々に見る馴染みの顔に、疾風は思わず声を弾ませた。畦には上がらず、足を泥に浸けたまま切れ長の目の青年を見上げる。
「様子を窺いにやってまいりました」
疾風は「そうだったのか」と答え、珍しげに上から下までを目で追った。
「藤太の黒装束以外、初めて見た。よく似合っている」
目許を緩ませ、小さく笑う。
若草にいる間、ずっと黒装束姿を見てきた疾風にとって、これは新鮮であった。
「ところで疾風様、傷の方はいかがですか?」
「だいぶいい。まだ完治していないが、こうして動けるようになった」
そう言って傷のある方の腕を動かしてみせる。
忍びの青年は疾風が思いの他元気そうなので、胸を撫で下ろした。
「あの時は私の力が及ばず、申し訳ございませんでした」
藤太が頭を下げてきたので、疾風は慌てて顔を上げさせた。
「いや、数も多いうえに手練れた者達ばかりだったんだ。仕方ない。それに、あそこで藤太の助けがなければ僕はもっと傷を負っていたはずだ。むしろ礼を言わせてほしい」
「疾風様……」
「まぁ、藤太だけの責任じゃねぇよ」と、草助が口を挟んだ。
「俺も、もっと早くに調べをつけることができていりゃあ、予め奴らを片付けておくことだって、できたはずからな……」
「そう言えば、緑助が前もって草助に文を送ってくれていたんだったな」
春になる少し前に、緑助は草助宛てに文を送っていた。その内容は、そろそろ疾風のもとに刺客が送られてくるかもしれないので調べをつけ、真実であるなら彼を保護してほしいというものであった。
緑助は自身が留守の間、一族の中で最も腕の立つ草助に村を一任している。信頼しているからこそ、彼に今回の重要な任務を与えたのである。
調査をしてみれば、緑助の勘は見事的中していた。
草助は上手いこと刺客集団の中へ潜入し、なんとか夜襲には間に合ったものの、離宮への侵入の際に刺客の放った流れ矢によって疾風は負傷してしまった。さらに林の中へ入っていたため、見つけるのにも少々時間がかかってしまったのだという。
「藤太、緑助に礼を伝えておいてはもらえないか?」
疾風は一度そう言ったものの、思い止まった。
「あ……いや、やっぱり、“感謝はしている。だが借りはいつか別の形で返すから、例の件だけは勘弁してくれ”と言っておいてくれ」
少し困り顔の少年に、藤太はふふ、と小さく笑う。そして「承知しました」と頷いた。
いつの間にやら疾風の手についていた泥は、乾ききっていた。そろそろ戻るからと告げて手を振り、背を向ける。
元いた場所へ戻ってゆく少年の、華奢な後ろ姿を見送ったあと、草助は徐ろに口を開いた。
「緑助のジジイ、まだあいつのことを帝にするなんて言ってやがるのか?」
発せられたのは、抑揚のない低い声であった。
先ほどの、例の件に関することだなと悟った藤太は、何も答えずにいる。そしてその沈黙こそが、肯定であることに他ならなかった。
「……ったく、困ったもんだぜ。情が湧いたって、素直に認めればいいのによぉ」
情が移ってしまい、疾風が見す見す殺されてしまうのが嫌だった。だから助けた。そう素直に言えばよいのにと、顔をしかめて乱暴に頭を掻く。草助の顔が「めんどくせぇ」とそのまま彼の心情を物語っていた。
「情だなどと、頭領である手前、言えないのでしょう」
藤太は静かに息をついた。
忍びの掟や任務は厳しく、生易しいことを言ってはいられない。護衛や密偵と失敗の許されない仕事だけでなく、必要に応じて暗殺にも手を染めなければならない。
からくり人形のように仕事をこなし、諜報活動によって歴史を陰から動かしてきた隠密部隊。そんな忍びの一族の頭領である緑助が、私的な理由で疾風を助けたいとは言えるはずがない。ゆえに、緑助にはどうしても正当理由が必要であった。一族を動かしてまで、巻き込んでまで、彼を助けなければならない理由が。そこで見い出したのが、「帝にふさわしいから」というものであった。
実際、疾風は性格が穏やかなうえに賢く、歳の割に冷静すぎるほどの判断力を持っていた。これが先天的なものであるのか、生まれた立場による後天的なものであるのか定かではないが、いつ殺されるかわからないという理不尽な運命ですら、抗って争いを起こせば多くの血が流れると、自分一人の血で済むのならそれが最善であると諦め、受け入れ、覚悟を決めている。その思考は十いくつの少年のものとは思えなかった。
対して、現在の帝は優しすぎた。同じく穏やかで賢い帝だが、綺麗事だけで国を治めることはできない。思考を巡らせて益、不益を計算し、割り切り、合理的かつ最善の策をとらなければならない。
多くを助けるために少数を切り捨てざるを得ない時や、民からすれば冷酷非情といえるような判断を下さなければならない時もあるはずである。そのような選択を迫られた時、現在の帝は堪えられるのだろうか。例え決断を下せたとしても、つきまとう罪悪感に果たして堪えて生きてゆけるのだろうか。
優しすぎるがゆえに心を痛め、いつかはその身を滅ぼしかねない。十分に起こり得ることであったため、そう言えば一族の者は誰も疑わなかった。
緑助のしようとしていることは、謀反を意味している。正に、帝が恐れていたことである。
優しすぎる帝。そんな彼に疾風の存在を消すという答えにまで行き着かせたのは、彼を使って謀反を企てる者が現れることが恐ろしいからであり、またその脅威から自身と家族を──妻の美鳥と一人娘の紗鳥を──守るため、必死だからなのであった。
そんな帝が謀反を恐れて疾風の命を断とうとしているというのに、疾風の命を保証するため緑助が疾風を立てて帝に対して謀反を起こさなければならないという悪循環が起きている。
草助は舌を打ち鳴らし、眉間に深い皺を刻みこんだ。
「まぁ、現在の帝よりも疾風様の方がその座に向いていらっしゃるのは、事実のようですし……」
「本人が嫌がっていても……か?」
草助からいつもの飄飄とした様子が消え、小さな瞳が瞼によって、さらに鋭く絞られる。一瞬にしてその場の空気が凍てついた。
「……ご命令とあらば」
この鋭い視線は、藤太自身に向けられたものではなく、緑助の考え自体に向けられたものである。
藤太に迷いは一切感じられず、緑助に付き従っていくという固い意思の現れがそこにあった。
頭領の命に従う。それは忍としての、当然あるべき姿。
「ははっ! ジジイのやつ、俺よりも、ぜってぇお前に山吹任せた方が正解だったと思うけどなぁ」
高らかな笑いと共に緊迫していた空気が一気に解け、まるで何事もなかったかのように二人の睨み合いは終わった。
「実力であなたに勝てる者など、この村にはおりませんから。緑助様が山吹をお任せになるのも当然のことです。怨むのなら、ご自身の才能を怨んでください」
思ったことをそのまま口にした草助に対し、藤太も遠慮せずに、ぴしゃりと事実を言い切った。
しかし、そうは言われても自分が忍びにふさわしくないというのは紛れもない事実である、と草助は悟っていた。
(俺は、甘いんだよ)
情を捨てきれない。藤太や、他の皆のようにはゆかない。忍びが勤まるほどの、冷徹さを持ちあわせていない。
草助は袖に手を入れ、腕組みの格好でやれやれと表情を緩めた。
遠くでは一国の皇子が、泥にまみれながら覚束ない手付きで脇目も振らずに苗を植えている。どうやら適度な深さがわかってきたらしい。器用なのか、順応性が高いのか、はたまたそのどちらともなのか。とにかく呑み込みが早い。まだ他の者達には到底及ばないが、それでもなんとか一人の力で植えつけができたようであった。
すると疾風は草助の視線に気付かぬまま、一旦かがめていた腰を上げ、口許に弧を描くと満足そうに自身の作った苗の列に一つ頷いた。
再び作業に戻ってゆくその姿に、草助は力なく笑みを浮かべる。
権力に翻弄される、哀れなな少年。
(俺は、けっこう気に入っているんだがな……)
この先いったいどうなってしまうのだろうか。草助にも、それがまったくわからないのであった。