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氷雪記  作者: ゐく
第二部
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第十四章 消えた皇子の行方(中) 弐

「えっと、草助? この液体は、いったい何からできているんだ……?」


 平静を保ったつもりであったが、少年の喉から発せられた音は虚しくもぎこちなく震えた。

 すると、今の言葉を聞いていたらしい。押し切り(※)で植物を刻んでいた女が作業を止め、手を伸ばして近くにあった籠に手を入れる。そしてそのひと掴みを疾風の手のひらに落とした。(※(わら)や草を切る道具)


「この実からでございます」


 小豆ほどの大きさの、球状の赤黒い実が少年の手の上でころころと転がる。


「これを煮出して染液を作るのでございます」


「この実を?」


 疾風はその小さな実を手の上で軽く転がしながら、物珍しげに眺めた。


紅墨(こうぼく)ってんだ」


 草助が疾風に教える。


「潰すと出る濃い紅色の汁が、まるで紅がかった墨のようであることからその名が付いたそうでございます」


「こいつで布を染めると赤茶色になる。んで、こっちの山菊で作った染液を使うと山吹色になるんだ」


 反対側に置かれている桶に、草助がとんと軽く手を置いた。


 辺りには幾つも同じような桶が置かれており、それぞれ中は違う材料で作られた違う色の染液となっているようであった。






 はぁ……、と疾風の口から盛大なため息が吐き出される。


「一瞬、(おぞま)しい光景に見えたから驚いた……」


 張り付いたような、力のない笑みであった。家から離れ、声が絶対に届かないと確信が持てたところで、疾風は胸の内にあったものを隣を歩く男に向かって吐露(とろ)する。


「たしかに。あの桶、すっげぇ大量の血が入ってるように見えるもんなぁ」


 草助も、腕組みしたまま苦笑した。

 紅墨の染液を見た時の疾風の反応から、草助にも思いあたる節があったのである。ただ、あまりにも幼い頃から見慣れていたため、今では何とも思わなくなってしまっていたのだが。


 (そういえば、血に見えるんだよなぁ~)


 再認識である。


「でも、知らなかったな。草花だけでなく、実や殻も染料になるのか」


 そう言って疾風は高い位置で一つに結っていた長い髪を、ふわりと(くう)に舞わせ、今来た道を振り返った。視線の先では、家の外に干された色とりどりの布達が風になびきながら青空を飾っている。

 先ほど見せてもらった紅墨で染めたであろう赤茶色の布や、草助が言っていた染液で染めたであろう山吹色の布もそこにある。他にも、夕暮れを思わせる(だいだい)や、陽射しをいっぱいに浴びた夏の葉のような深い緑もあった。


「まるで妙術のようだな」


 元はただの白い布。染液と同じ色に染まるとは限らない不思議。同じ染液でも、使用する金属によって生じる微妙な色味の違い。頭では染め物の原理を理解してはいても、目の前の現象に素直に感動が沸き起こった。


 すると感心している疾風の横で、草助が突然に吹き出し、笑いだした。顔をくしゃくしゃにして笑うので、なんだか馬鹿にされたような気がして少し(しゃく)である。


「そんなに笑うことはないだろう」


 疾風がむくれていると、草助は満足げに(かぶり)を振って勢いよく少年の髪をかき回しはじめた。


「ははっ! やっぱお前、餓鬼(がき)だわ。札納めが終わったっていったって、まだまだ子供だ」


 またしても不意打ちを喰らってしまい、お陰で疾風は前のめりになって転びかける。


「なっ……草助!」


 文句の一つでも言ってやろうと口を開きかけたその時、草助が突然歩みを止め、先手を打った。


「さーてと。そんじゃ次は、たんぼでも見に行くとすっかー」


 草助は疾風の気を(そら)らすため、適当にただの思い付きで言っただけなのだが、意外なことに効果のほどは抜群であった。


「何っ? たんぼ! たんぼとは、水田のことだな! 草助、田起こしはもう済んだのか? 田植えは? ちょうど今の時期なんだろうっ?」


 疾風が早口でまくし立てる。なんと、彼は「たんぼ」という言葉に異常なまでの反応を示し、普段の落ち着きは何処へやら。文句を言うことも忘れて童子のようにはしゃぎだした。

 言い出した男の方も喰らい付きのよさに機嫌をよくし、にやりと歯を見せて笑った。


「田起こしは済んでる。ちょうど今日あたり田植えをやってる奴らもいるはずだ。どうだ、お前もやってみるか?」


 その言葉に、疾風は強く握った両の拳を小さく震わせ、瞳を輝かせて全力で草助に詰め寄る。


「できるのか、田植え……!」


「お、おう……」


 疾風に詰め寄られ、草助は退()け反った。急に興奮を露わにしだした少年についてゆけず、若干引いている。


 疾風は以前、雪姫から水田や田植えについて話を聞かせてもらったことがあったため、実際にこの目で見れることが嬉しくて(たま)らなかった。ましてや自らの手で田植えができるかもしれないのだ。心が踊る。

 自身としては若草の離宮でひっそりと一生を終えるものと覚悟していたので、こうして外の世界と関わりを持つことができるとは思ってもみなかった。例えこれがほんの一時の夢であったとしても、疾風にとっては十分過ぎるほどの喜びであった。


 暖かい陽射しの中、ざわりと吹く春風に路傍(ろぼう)の草花が揺れる。

 風が運ぶ、土や水や緑の匂い。疾風は目を閉じ、胸いっぱいにこの村の空気を吸い込んだ。


(雪姫がくれたんだ……)


 すうっと心の奥にまで流れ込み、沁み渡ってきたのは、温かい何かであった。

 彼女から貰った刀があったからこそ、今こうして地面の上に両足で立ち、天の(もと)で息をしていられる。喜びを感じることができる。

 そう、雪姫がくれたのである。命を。喜びを。


 疾風はゆっくりと瞼を持ち上げ、腰に差した護身刀に優しく、愛しむかのように手を添えた。


「風見ヶ丘でも、ちょうど今頃田植えをしているだろうか」


 思いを馳せるように柔らかな表情で空に向かって目を細めると、草助もそれに合わせて同じく空へと視線を投げた。


「大概この辺りの地域は今頃だからな。風見ヶ丘もたぶんそうだろ」


 山吹と違って風見ヶ丘は風土に恵まれているため、作られる米も美味であるうえに生産量も多いという。そんな話をしながら、二人は水田へ向かって歩きはじめた。

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