第十四章 消えた皇子の行方(中) 壱
縁側に出て風にあたっていた疾風は、落胆の息を漏らしていた。
昼前だというのに、溜め息をついたのが今日で何度目であるのかもうわからない。
徐ろに懐から護身刀を取り出すと、すらりと鞘を引き抜いた。露になった刃を左右に小さく傾けながら、表面に映った光を滑らせる。
(やっぱり無理か……)
草助の家でしばらく安静にしていたこと。村に代々伝わるの秘伝の薬の効果が絶大であったこと。加えて自身の若さのお陰で、疾風の傷の治りは早かった。まだ少し痛みは残るものの、動き回れるまで回復したので、先ほど草助から砥石借りて毀れしまった刀の刃を磨いたのである。
ところが。しっかりと丁寧に磨きあげたのだが、どうしても最初のような──鏡のような美しさを取り戻すことはできなかった。
ただの刃物としてなら十分に使い物にはなる。しかし、これは雪姫から貰った大切なお守りでもある。だからこそ、状態を悪くしてしまったことに申し訳なさを感じずにはいられなかった。
刃に映り込む疾風の細い輪郭は、砥石による無数の細かな傷によってうっすらと霧がかったように滲んでいる。
人を斬ったのは、今回が初めてであった。
磨いても取れぬ曇りが、まるで自身の咎を示しているように思えて、さらに気持ちは重たく沈んでゆく。
疾風はそっと目を伏せ、刀を大事に鞘へと戻した。
その横を、春風が優しくすり抜ける。消沈した心には、それがとてもよく沁みた。心地よさに身を委ね、しばらくそのまま ぼんやり過ごしていると、後方──部屋の奥側から床の軋む音が近づいてきた。
続けて襖を引く音がする。しかし、入ってきたのが誰であるのか分かっていたため、少年は振り向くこともせず、ただ黙って遠くの空を眺め続けた。
薄青色の空には、帯状の白い雲がゆっくりと流れている。その前を、二羽の鳥が鳴きながら横切っていった。
ぎしりと床が鳴り、ふと近くに影が落ちる。疾風は自身の真横に立つ男を見上げた。
「もう傷の具合はいいんだろ? だったら、これから村ん中を案内してやるよ」
日の光を背負った草助が、袖に手を入れて口の端を吊り上げる。
相変わらずの偉そうな態度と軽い口ぶりであったが、どうやらこれが彼の素であるらしい。誰に対してでも同じように接している。そしてそれは、皇子である疾風に対しても例外ではなかった。
ざっくばらんで飄々としたこの性格にも、最初のうちは戸惑い、どう扱えばよいのかと困ったが、ここ数日の間でずいぶんと慣れた。
壁を作らない草助に、疾風もすでに心を開きはじめていた。
「ああ、そうだな。頼む」
疾風は未だ、草助を除いて老人とその孫娘である霞という傷の手当てをしに来てくれていた二人以外、誰とも会っていなかった。当然、家から一歩も外に出たことがない。ゆえに、これは嬉しい申し出であった。
「ついてきな」
疾風はそれに頷いて応え、手に持っていた護身刀を腰に差し、立ち上がる。
雪姫と出会ってからというもの、村がいったいどのようなものであるのか、ずっと気になっていたのである。
少年は逸る気持ちを抑えながら、草助の大きな背中を追った。
初めて見る村の景色に、疾風は落ち着きをなくし、しきりに辺りを見回す。
遮るもは何もない。離宮にいた頃のように辺りを取り囲む林や垣根、塀などは存在するはずもなく、のっぺりとした大地が遠くの山の麓まで続いている。
広い、と思った。
その上には畑や水田。ある程度の間隔をもって立ち並ぶ茅でふかれた小さな家々。忍びの村と言えど、見かけは極普通の農村である。しかし離宮からほとんど出たことのなかった彼にとって、全てが珍しく、また輝やかしく、小さなこの村が途轍もなく広大に思えた。
村の家々をまわって挨拶を済ませてゆき、次が見えてきたところで草助が思い出したように山吹染めを見せてやると言った。
初めて聞く言葉に疾風が小首を傾げていると、草助はこのままついてくるよう促した。
「あら、草助様」
この家の妻と近所に住む女達が、楽しそうにしゃべりながら手分けして窯に火をくべたり、押し切りで植物を刻んだりしている。草助は袖に手を入れたまま、開け放たれた戸の敷居を跨いだ。
「おう、邪魔するぜ。こいつに染め物の様子を見せてやってくれ」
後ろに控える疾風を親指で指し、まるで自分の家であるかのように平気な顔をして奥まで入ってゆく。
「まぁ! こちらの御方があの疾風様なのですね」
「お怪我の具合は、もうよろしいのですか?」
ここは忍びの村である。すでに皆、疾風のことを知っていた。怪我の状態だけでなく、身の上のことも事細かに緑助から知らされており、村全体で情報を共有している。
「ああ。完治はしていないが、だいぶいい。いつまでかはわからないが、しばらくこの村で世話になることになった。よろしく頼む」
そう告げると、皆に頭を垂れられる。疾風は内心でぎょっとした。こうした状況にまったく慣れていなかったため、対応に困ってとりあえず小さな苦笑で返した。
「さぁ、どうぞ。中へお入りくださいませ」
戸口に立ったままでいたので、女に中へ入るよう勧められた。
薄暗い土間には鼻を突くような植物の青臭ささと、ほんのりと温かな湿気が立ち込めている。
「たしか……植物の染料成分に金属が結びつくと、水に溶けなくなるという性質を利用したのが染め物だとか」
「ええ、そのとおりです。よくご存知で」
「いや、書で読んだことはあるが、実際に見るのは初めてなんだ」
そう言って疾風は近くにあった桶に顔を近付け、覗き込む。ところが中を見た途端、弾かれたように後退った。
桶の中では、大量の赤黒い液体が少年の縮み上がった心臓を嘲笑うかのように、ゆらりゆらりと揺蕩いながら格子窓から漏れる光を弄んでいる。よく見れば違うのだが、疾風には一瞬それが血に見えて、ぞっとした。
身を固くし、思わず腕の傷に軽く手を添える。だいぶ癒えたはずなのだが、この赤黒い液体を見て傷が再び疼き、体中から冷や汗が出た。