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氷雪記  作者: ゐく
第一部
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第一章 若草へ

 うららかな春の日差しに、澄みわたる青空。

 そこに雲は一つも見当たらなかった。透き通った明るい青が、どこまでも続いている。



 ────晴天



 そんな言葉が似合いの空に対し、地上……風見ヶ丘に住むとある少女の心の中は、見事なまでに曇天(どんてん)であった。


 こちらの気分は沈んでいるというのに、辺りの景色は春の訪れによって目映(まばゆ)いのだ。あまりの落差に、沈んでいた心がさらに重たくなったような気がしてくる。そんな風にぼんやりと虚無感に包まれながら、少女がしゃがんで山菜を摘んでいた時のことであった。


「ねっ? 雪姫(ゆきひ)!」


 突然話を振られて少女は我に返り、勢いよく顔を上げた。


「えっ! な、何っ?」


 慌てて周囲を見回すと、首の後ろで一つに束ねられていた長い髪が背中の上でさらさらと踊る。緑青(ろくしょう)色の衣の上に、金の髪が広がった。


 すぐ近くにいた友人が「はぁ……またぁ?」と眉間に(しわ)を作りながら、こめかみを押さえた。その奥側にいたもう一人の友人も、からからと笑いだす。

 この日、雪姫は友達である椿(つばき)紫苑(しおん)の三人で、村のすぐ近くにある山まで山菜を採りにきていたのだった。


「あはは! 雪姫ったら、またボーっとしてぇ」

「私達の話、ぜんぜん聞いていなかったのね……」


 どうやら目を吊り上げる気も失せてしまったらしい。呆れた表情で、椿がやれやれといった風に首を振る。彼女は立ち上がって両手を腰に当てると、雪姫のことをずいと見下ろした。


「もうっ! 明日、御札を納めに都へ行くんでしょう?」


(ああ、なんだ。またその話かぁ……)


 雪姫は苦笑した。

 いったい何度その話をしたら飽きてくれるのだろう。当人はもううんざりだというのに、この二人はまだまだ飽き足らず、それどころか都への憧れを日々募らせているようであった。

 そんな二人に対して、雪姫は「ええ。そうなの」と会話がそれ以上膨らまないよう適当に返事をし、再び山菜採りに励んだ。




 この地方にある国々では、満十七歳以上を成人と定めている。

 十七歳の誕生日を迎えた者は成人の儀として都の神宮へ行き、札を納め、御祓(おはら)いをしてもらうという習わしがあった。俗にそれは「札納(ふだおさ)め」と呼ばれていた。

 雪姫も、ちょうど三日ほど前に十七歳の誕生日をむかえ、札納めのために都──若草(わかくさ)へは、明日の朝出発することになっていた。


 ところが、雪姫の落ち込んでいる原因はそこにあったりする。


 若草へは、父の白峰(しらみね)に連れて行ってもらえるので何の心配もないのだが、どうやら父には用事があるらしい。一週間ほど滞在することになってしまった。

 一日や二日ならまだしも、一週間もの間、知らない土地で知らない人々に囲まれ、ただひたすら宿で留守番をしていなければならないのだと考えた時、それはもう憂鬱な気分に陥った。

 白峰からは留守番するよう言われているわけではない。それどころか、明るいうちならば外出してもよいとさえ言われている。しかし、雪姫には町に出てみようという思いなど、砂の粒ほども湧いてはこなかった。結果、残った選択支が留守番だけになってしまったのである。

 たったそれだけのことだが、彼女の気分を落ち込ませるのには、十分であった。


 雪姫がこれほど若草行きに対して鬱々としているというのに、椿と紫苑の二人はというと盛り上がる一方であった。雪姫が少し記憶を掘り返しただけで、いろいろ言われた記憶がよみがえってくる。



「いいなぁ。若草に一週間もいられるだなんて」


「そうよ、都よ? 若草よ! しかもその(かん)、仕事だってナシなのよ!」


「うらやましい~!」


「ちょっと雪姫、私と代わりなさいよ!」



 ……本当に、散々言いたい放題である。

 そんなにも都は魅力的な場所なのだろうか。雪姫には、どうにも理解し難いところであった。


 たしかに、若草にいる間は農作業の手伝いから解放されるかもしれない。けれど、慣れない土地でのひたすら暇に耐えるだけの留守番と、慣れ親しんだ村での農作業とではどちらの方が骨が折れるのだろう。

 雪姫は風見ヶ丘から出たことがほとんどない。また小心者でもあるために、どうしても都に対する好奇心よりも恐怖心の方が(まさ)ってしまっていた。これが都へ行きたくない、一番の理由であった。


「いいなぁ。私も早く行きたいなぁ」

「私達なんて、まだまだ先だものねぇ」


 雪姫が黙々と手を動かす横で、二人はなおも都の話を続けていた。ところが、


「おーい、雪姫ーっ!」


 彼女達の会話は、誰かの呼び声によって遮られた。

 なんともよく通る、女性の声であった。


「あれ、菊花(きくか)姉さんじゃない?」


 雪姫が言われた方を振り返えってみると、声の(あるじ)が肩の上で髪を揺らしながら、せっせと山道を登ってくるのが見えた。やはりそれは椿の言ったとおり、菊花であった。


 菊花は近所に住む三つ歳上の、雪姫達にとっては姉貴分的存在である。

 彼女は決して緩やかとは言えぬ斜面を登ってきたにもかかわらず、慣れのせいか疲れた様子はなかった。呼吸をほんの少し崩す程度で済んでいる。


 登りきった菊花が、ふうと一息ついた。


「雪姫、おばさんが呼んでたぞ」


 そう言って腰に手を当て、もう一方の手で親指を立てると今きた道を指し示した。

 雪姫は天の助けとばかりに、すっくと立ち上がる。


「そ、そうだったわ! 大変。私、まだ荷物をまとめていなかったの!」


 明日のための荷造りを盾に取り、撤退(てったい)を図る。雪姫は山菜で一杯になった籠を持ち上げ、二人に先に戻るからと告げて、あわただしく菊花と一緒に山を下っていった。




「菊花姉さんが来てくれて、本当に助かったわ……」


 少し歩き、椿と紫苑の二人から十分に距離が取れたところで、げっそりと疲れた様子の雪姫が(ひと)りごちた。あの二人には申し訳ないが、これ以上は都の話を聞きたくなかったので上手く脱け出すことができてよかったと胸を撫で下ろしていた。菊花には、感謝してもしきれない。


 すると、今の呟きが聞こえたらしい。隣を歩いていた菊花が突然に吹き出し、笑いだした。


「なるほどねぇ。若草行きのことで、またあいつらに絡まれてたんだろ?」


 菊花は薄笑いを浮かべながら、雪姫の顔を覗き込んできた。


「そうなの。最近、ずっとよ?」


 項垂(うなだ)れ、深く溜め息をつく少女の肩に、菊花が励ましと同情を込めてポンと軽く手を置く。

 彼女自身も三年前、札納めの際に若草行きのことで今の雪姫とちょうど同じような目に遭っていて、よく親に愚痴をこぼしていたことを思い出したのである。


「でもな、雪姫。残念だが今のはまだ序の口だ。帰ってきたら……もっとすごいぞ?」


 菊花の、取って付けたような爽やかな笑みと遠い目が、なんだかもう全てを物語っている気がした。

 忠告を受けた少女は返す言葉を失い、顔を引きつらせた。


(い、行く前から帰ってきてからの心配をする羽目になってしまったわ……)


 山を下りながら雪姫が(ふもと)に目をやれば、相変わらずの美しい景色が広がっていた。

 村の中央を流れる小川は日にきらめき、それを挟むようにして広がる野原には、点々と散らしたようにたくさんの花が咲いているのが見える。

 さらに続く水田地帯。風見ヶ丘の村の多くを占めるそれには、さっそく苗が植えられ、鏡となった水面に晴れわたった青空が映し出されていた。


 山から見下ろした村の景色は、何とも(のど)かなものであった。


 そして雪姫はこの景色を、一週間分目に焼き付けておこうと思った。

 なんだかんだ言ったとしても、結局はこの村が恋しくなってしまうに違いないだろうから、と。

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