第十三章 消えた皇子の行方(前) 弐
意識をとり戻した瞬間、疾風は布団を跳ねとばし、勢いに任せて起き上がった。ここがどこなのかということよりも、小刀を握っていないことに身体が真っ先に反応したのである。
ところが、反動で左腕に激痛が走り、思わず顔を歪めて歯をくいしばった。反射的に当てた右手の下では、手当てされた傷がズキズキと痛みの余韻を響かせている。
ここでやっと冷静になり、疾風はまったく見覚えのない部屋にいることに気が付いた。自身もいつの間にやら違う着物に着替えさせられている。
たしかに気絶させられる前、男が「ここを出る」とか「担いでいった方が早い」とか何とか言っていたが、いったいどこへ連れてこられたのだろうか。
そんなことを考えていると、遠くの方から人の動く気配と微かな足音がする。廊下からの足音はだんだんと大きくなり、こちらへ近づいてきているようであった。
「おう、やっと気が付いたか」
襖が開いて、短髪の男が無遠慮に部屋へと踏み込んできた。
歳は四十を越えたぐらいで、浪人のような態をしている。
体つきと声からして、昨日の者であることに間違いはない。しかし、さすがに穏やかな性格の疾風でも、この男のへらへらとした表情と態度に少々むっとした。いきなり首を絞め上げられ、腹まで思いきり殴られたのである。例え味方だとしても、この者に良い印象を持つことなどできなかった。
「──小刀はどこだ」
口を開けば、自然とその口調も尖る。しかし、相手は気に止める様子もなく「ああ、心配すんな」と返してきた。
「お前の大事なもんは、あっちだ」
男は腕を組んだまま、部屋の奥の方を顎でしゃくってみせる。
疾風が示された方に顔を向けてみると、縁側の近くにきれいに畳まれた着物と袴が置かれていた。
差し込む朝日を浴びたそれは疾風の着ていたもので、上には鞘に納められた護身刀が乗せられている。
受け取った時は篝があったにせよ、辺りが暗かったため、実際の刀の色を目にするのはこれが初めてであった。
柄も鞘も共に無地で、装飾のたぐいは一切はない。全身はたっぷりと溶いた墨よりも遥かに濃い黒い色をしている。下に敷かれた衣の白が、そんな刀の黒をより一層 際立たせており、横たえられた姿はまるで大きな黒曜石のようであった。
漆で覆われた表面に浮かぶ艶はどこまでも上品で、外見からは、とてもではないが何人分もの血を吸った恐ろしいものであるようには思えない。
「着物は血で染まっちまって着れなさそうだが、刀の方は磨けばまだ使えるだろ」
そう言って男は隣にどかりと腰を下ろしてきた。疾風はそれを横目に、さらに不機嫌そうに目を据わらせる。
「ここはどこだ」
「ん? ここか? ここは山吹だ」
それでも男は動じることなく、口の端を吊り上げた。
「山吹?」
「ああ。今頃、帝は焦ってるんだろうなぁ」
驚いて尋ね返した疾風に向かって、男は“してやったり”といった風に笑ってみせた。
たしかに、息の根を止めるはずの対象が忽然と姿を消し、行方不明となったのである。帝もまさかこのような事態が起こるとは、予想していなかったに違いない。
「でもこの先、水面下では僕のことを血眼になって捜すはずだ」
もともと、疾風は存在を気にかける者が現れぬよう、離宮へと追いやられていたのである。思惑どおり存在が有耶無耶となっているというのに、ここでいなくなったと報じれば逆に関心を集めてしまう可能性がある。それよりも「敷地内に夜盗が入ったが、何事もなかった」とだけ報じ、今までどおりにしていた方がよほど都合がよいと帝は考えるはずである。よって、疾風の失踪を表沙太にはせず、見えないところで必死の捜索を行うのだろうと容易に察しはついた。
「だろうな」
男は顎に手を当て、生えはじめた髭をいじりながら鼻で笑った。
「まぁ、油断はできねぇが、この村にいる限りお前は安全ってこった。だから傷が治るまで、大人しく寝てな」
男は表情を緩めて疾風の頭にぽんと手を置き、撫で回した。
端から見れば、何とも気安い親子のような光景である。少年は目を丸くし、固まった。
自分に対してこのように接したり、お前呼ばわりをする者など今まで一人もいなかったので、疾風はいまいちどう反応してよいのかがわからない。心に壁がないというか、ざっくばらんというか、こういった気さくな者には慣れていなかったため、少々照れくさくなる。
最初の飄々(ひょうひょう)とした態度と物言いには少々むっとしたが、結局、疾風はこの男を嫌いになることができなかった。
手を振り払えずに固まったままでいたので、されるがままである。少年の流れるような美しい髪は、見るも無残──ぐしゃぐしゃにされてしまった。
疾風は苦笑した。
「そうか。すまないが、しばらく世話になる。えっと……」
「ああ、そういえばまだ名乗ってなかったな。俺は草助ってんだ。よろしくな」
目の前に屈託のない笑みと、節くれだった大きな手が差し出される。疾風も右手を差し出し、互いに握り合った。
「草助か。よろしく頼む」
草助の手はごつごつとしていたが、温かかった。