第十三章 消えた皇子の行方(前) 壱
時を遡ること、約一年。
半月が浮かぶ群青色の星空の下。これは、疾風が若草の離宮から雪姫を逃がしたあとのことである。
疾風は真っ暗な林の中で、負傷した左腕を庇いながら次々と襲いくる夜盗を斬っていた。何も考えず、体の動くままに刀を振るい、突いた。
運がいいのにもほどがあった。今し方もらったばかりの護身刀を握り、命拾いとは正にこのことだと肝を冷やす。この刀がなければ、無事ではいられなかった。雪姫には命を救われたようである。
最初は、お守りとして貰ったばかりのこの刀に血を吸わせるのが心苦しかった。しかし、そのようなことをいっている場合ではない。藤太の言っていたとおり、相手は数が多く手練れた者達ばかりである。普通の夜盗ではなく、おそらく自身に向けられた刺客集団であろう。少しでも油断や隙があれば、間違いなく殺される。
じっとりと嫌な汗が、疾風の背中を伝った。
こうして刺客が送られてきたということは、朝廷で皇位継承権の新法案が通り、法律が改正されたことを意味する。
現在、帝に嫡子はおらず、子は沙鳥という名の幼い皇女一人だけであった。今までの法案は皇位継承権は男子のみと定められていたため、帝の甥である疾風が次に皇位を継ぐ権利を持っていた。しかし、新法案では帝の第一子に継承権が与えられるため、姫であっても皇位を継ぐことが可能となる。
つまり、沙鳥が次に皇位を継ぐことができるようになるのだ。
緋那や水澄にはすでにこの法案が根づいており、若草だけが遅れをとっていたため、法案はいつ改正されてもおかしくないという状況にあった。
この法案さえ通ってしまえば、帝にとって疾風は用済みとなる。例え帝自身が病などで倒れ、もしものことがあったとしても、次に皇位を継ぐのは己の家系の者と決まっている。
裏で支持する者が現れる可能性のある疾風を、わざわざ置いておく必要はない。この世から消し去ってしまえば、帝の命は保証され、全ては上手く収まるというわけである。
民には暗殺と解らぬよう、刺客を夜盗に見せかけるという心憎い演出まで用意するとは、さすがは一国の主。徹底している。
疾風が腕に走る痛みに耐え、ひたすら刀を振るい続ける中。遠くでは、雪崩れ込んできた見張りの者達と刺客達との打ち合いが続いていた。
さらには、倒れた篝によって火が野原に燃え移り、騒ぎはより一層大きなものとなっていった。
ぱちぱちと音をたてて焼けていく野原。触れ合う金属のかん高い音。地面を踏み鳴らす鈍い音。時折聞こえる叫び声は、敵のものなのか、見張りのものかもわからない。
普段は人などほとんど入ってくることのなかったこの庭が、今やその人で入り乱れ、戦場となっていた。
疾風は大きく肩を上下させ、荒い息を整える。左腕の傷が、どくどくと脈を打ちながら燃え上がらんばかりの熱を発していた。
とんでもなく痛い。
とりあえず、周りの刺客は一掃できたらしい。疾風は肩で息をしたまま、闇色に塗り潰された木立の隙間から見える戦場の様子を、ぼんやりとした頭で眺めていた。
しかし、安心しきっていたそのせいで、背後からの人の気配に気付くのに遅れた。
次の瞬間、後ろから伸びてきた腕により首を絞め上げられる。疾風は回らぬ首で、背後にいる敵を睨んだ。
「おいおい、物騒だなぁ。その刀、しまってくんねぇか?」
どうやらこの声の持ち主は男であるらしい。人のことを絞め上げておきながら、呑気そうに低く嗄れた声でそう言った。
「なかなかの筋じゃねーか」
「…………」
先ほどは反応の遅れた疾風であったが、かろうじて男の脇腹に刀を突きつけていたのである。
「悪かったって。からかっただけだ、許せ」
男が腕を緩めるのと同時に、疾風も素早く距離をとる。向き合うがしかし、暗いせいで顔はよくわからない。わかるのは、せいぜい短髪であることと、がたいが良いということぐらいであった。
「緑助のジジイから筋がいいって聞かされてたから、どんなもんかと思ってな。ちょいとばかし試させてもらったんだ」
緑助の名に、疾風がぴくりと反応する。
「俺は敵じゃねぇ。お前を助けに来た」
「……緑助を知っているのか?」
たしかに、今にして思えばこの男に殺気はない。しかし油断はできなかった。
「知ってるも何も、俺も藤太と同じ忍びだぞ。山吹から来た。緑助のジジイから、お前を助けるようにって春になる少し前に文が届いたんだ」
山吹は風見ヶ丘と同様、若草が治める村の一つで、表向きは普通の集落である。しかし、真の正体はというと、忍びの一族の住まう村であった。そのことを知る外部の者は疾風を含めてごく数名しかおらず、この男は緑助と藤太を知っているだけでなく山吹から来たと言っている。忍びであることに間違いはなさそうであった。
まだ信用しきることはできないが、疾風はほんの少しだけ警戒を解くことにした。
「おい、ここから出るぞ」
「で、出る? ここから?」
あまりにも唐突であったため、疾風は少々間抜けた声になった。護身刀を腰に差していたところでそう言われ、面食らう。
「ああ。しっかし、ひっでぇ傷だなぁ……。こりゃあ俺が担いでいった方が早そうだ」
男は独りごちるや否や、素早く距離を詰め、疾風の腹に拳を打ち込んだ。
大きな衝撃と共に少年の身体が「くの字」に折れ曲がり、全身の毛が逆立つ。吐気とも似て異なった感覚に襲われ、疾風は声をあげる間もなく気を失った。