第十章 水澄へ 参
「さーてと。それじゃあ私は、その佳月の様子でも見に行ってこようかしら」
ぱん、と幼夢が膝を叩き、軽い口調で盆を手に取り立ち上がる。
「今ね、佳月がお粥を……」
「待って、幼夢。聞きたいことがあるの」
部屋から出て行こうとしていた幼夢を呼び止め、雪姫はその横顔に向かって、ずっと気になっていた質問を投げかけた。
「緋那では、皇宮で権力争いとか……暗殺とかって、あるの?」
皇家の中でも、この二人は珍しく幸せな部類に入るに違いなかった。勝手に婚約相手を決められてしまうこともなければ、疾風のように利用され、命が狙われるような心配があるようにも見えない。二人を見る限り緋那からはあまり政治的な“きな臭さ”は感じられないため、若草とは違うのだろうか、それとも若草が特殊なのだろうかと、ずっと不思議に思っていたのである。
穏やかでない質問に目を丸くした幼夢であったが、はぐらかしたりせずにきちんと答えてくれた。
「今は落ち着いているから、そんなことはないけれど……二、三十年前までは、あったわね」
そう言ってゆっくりと座り直す。いつものあどけない少女の顔が、一瞬だけ皇女の顔になったのを雪姫は見逃さなかった。
「どうしたの? 藪から棒に……」
「ううん、ちょっと気になっていただけだから」
雪姫は静かにそう言って顔を伏せた。続けて下をを向いたまま、ぽつりとこぼす。
「皇家の人って、大変なのね」
「そうねぇ。いろいろと面倒ではあるかもねぇ」
雪姫の呟きを拾った幼夢が、間延びした声で答えた。
「責任は重大だし、政で外にはあまり出られないし……」
幼夢は一つ二つと指を折って数えはじめる。
「寝不足は間違いないし、それから人に見られるから礼儀作法も完璧にしないといけないし……」
口に出しているうちに嫌になってきたのか、みるみるうちに幼夢の表情がしかめられてゆく。項目を一通り挙げ終えた頃にはもう、ひどい渋面になっていた。
「おっ、雪姫! もう大丈夫なのか……って、幼夢は何て顔してんだ」
雪姫が後ろからの声に振り返ると、そこにはちょうど佳月の姿があった。
彼は、部屋に入ってきた途端目に飛び込んできたであろう幼夢のしかめ面に、唖然としている。
雪姫は先ほど幼夢から話を聞いてしまったこともあり、つい佳月のことを「幼夢の夫になる人」と意識してしまった。が、はっと我に返り、佳月にも倒れてしまったことを謝罪する。
「あの、佳月。心配かけてしまってごめんなさい。それと、ここまで運んでくれてありがとう」
「気にすんなって! それよりお粥、食えそう? この家の婆さんに炊事場を借りて、作ったんだ」
佳月は、ぐっと立てた親指で後方を指し、口の端を吊り上げた。
彼の姿が見えないとは思っていたが、どうやら粥を作ってくれていたらしい。
優しい二人にこんなにも心配をかけてしまったのかと雪姫が心から申し訳なく思っていると、尋ねられた本人が応えるよりも先に幼夢が元気よく手を挙げた。
「はーい! 私も食べるーっ!」
「ははっ、言うと思ったぜ。だから多めに作っておいた」
「やった!」
歓喜した幼夢が雪姫に向き直る。
「あのね、雪姫。あなたには敵わないけれど、佳月も料理が上手なのよ」
「いや、幼夢よりかは俺の方がまだ増しってだけだ。こいつの料理は本当に酷すぎるからな……」
佳月は一人腕を組み、うんうんと頷いてみせる。その沁々とした様子に、雪姫は思わず笑ってしまったのであった。
「ほら、持ってきたぞー!」
佳月は豪快に土鍋ごと部屋に待ってくると、そこで取り分けはじめた。
粥は卵で閉じ、塩で味付けしただけの単純なものだが、本当に美味しかった。
米も硬すぎず柔らかすぎず、ふっくらとちょうどよく火が通っており、素材本来の甘味が引き出されている。幼夢が佳月を料理上手だと言っていたのにも、納得であった。
雪姫はそれほど食欲を感じていなかったが、実際それは気のせいで、身体の方は空腹であったようである。
次々と粥を口に運んでゆく雪姫のすぐ横で、続いて幼夢も碗を受け取り、箸をつけた。
ところが、
「あっつぅ!」
幼夢が目尻に涙を溜めながら口の中で粥を転がし、もがきだした。
「ど、どうしたの! 大丈夫っ?」
粥は、びっくりするほど熱くはない。雪姫には、いったい何が起きたのかがわからず、ただおろおろしながら彼女を見守ることしかできない。
助けを求めて佳月に視線を送るが、彼は落ち着いた様子で自分の碗に粥をよそいながら笑っていた。あまりにも冷静でいるので、さらにどうしてよいのかがわからなくなり、雪姫はますます狼狽えた。
「幼夢のやつ、猫舌なんだ」
何とか粥を飲み込んだ幼夢が口に手を当てたまま、真っ赤な顔で雪姫に向かって大丈夫、大丈夫ともう片方の手を振って合図する。
「一度にたくさん口に入れるからだぞ~。粥は逃げないってのに……」
呆れた口調でそう言うが、水の入った湯飲みをわたす佳月の、彼女に向ける瞳は優しかった。それに気付いてしまった雪姫は、見ているのが恥ずかしくなって思わず二人から顔を背けた。
「ん? どうした、雪姫?」
「いえ、何でもないの! 気にしないで!」
腹ごしらえも済んだところで、三人はこの家の主である老婆によく礼を言い、村をあとにした。
「具合が悪くなったら、遠慮なんてしないですぐに言うのよ?」
「そうそう。また倒れたりしたら大変だもんな」
歩きながら、雪姫は幼夢に小突かれ、続いて佳月からも頭をくしゃりと撫でられた。
二人から釘を刺されてしまい、雪姫はしょんぼりと項垂れる。
しかし気絶という前科を作ってしまったので、ここは素直に頷くことにした。
「ええ。以後気をつけるわ……」
日はまだ高く、空と大地をじりじりと焦がしている。この分ならば、日が傾く前に都へ着くことができるだろう。
街道まで戻ってくると、雪姫達は再び水澄を目指して歩きはじめた。
都へと続く長い道には、三人の仲良く並ぶ影が落ちていた。