第十章 水澄へ 壱
青々とした草原に走る、一本の道。それは国と国とを繋ぐ街道であった。
長く延びたその先には、都──水澄が小さく見えている。雪姫達が風見ヶ丘からここまでくるのに、徒歩で三日ほどかかった。街道沿いに歩いてきた三人は、国境を越え、あとニ刻(※一時間)も歩けば都に到着するというところまできていた。
先日、使いから聞いた話しによると、氷姫が霜白皇家の者であることを突き止めた学者は、現在国を出て水澄に滞在しているらしい。学者は名を清晏といい、氷姫の失踪について何らかの手掛りが掴めるのではないかと、独自に調査を進めてくれているという。
そう聞いて、三人は自分達も水澄へ向かうことにした。ただ闇雲に捜すのではなく、まずはその学者に会い、いろいろと話を聞く必要があると判断してのことであった。
水澄は、緋那と同じく若草の隣国である。
西側の緋那が芸術の盛んな国であるのに対し、北東側の水澄は学問を盛んとする国であった。
もちろんそこには歴史や考古学を研究する学者も数多く集まっており、資料も充実しているため、調べものをするにあたって水澄は恰好の場所といえた。
行き先さえ決まってしまえば、あとはもう流れるようにして事は進んでいった。
幼夢と佳月が緋那の皇宮に対して文を書き、雪姫も急いで旅の支度を整えた。
せっかくの決意が揺らいでしまわぬうちに、甘えたくなってしまう前にと、雪姫は飛び出すようにして村を出た。そのため、椿や紫苑はおろか、村の皆には碌な挨拶もせずに旅立ってまったので、そのことだけが心残りであった。
(あともう少しだわ……)
ぽたり、と一滴の雫が街道に染みを作り、雪姫の頬をまた新しい汗が伝う。
春も半ばであるというのに、この日は季節の割りに気温が上昇し、夏に引けを取らぬほどの強い陽射しが三人を照りつけていた。
さらに、時折吹く風に舞い上がる街道の土埃。これが汗ばんだ肌に張り付いて、気持ちが悪いことこの上ない。砂粒は目に入って痛いだけでなく、汗と混じって泥となり、額を拭えば袖が汚れた。
三人とも暑さと疲れのせいで口数は皆無に等しく、周囲に響くのは草鞋を踏む音だけであった。
(もう少し……)
肩を並べて歩く幼夢と佳月の後ろに続いていた雪姫であったが、いつの間にやら二人との間に距離が生じはじめていた。
頭がぼーっとし、身体も思うように動すことができない。雪姫は異変に気付きながらがらも、水澄まであともう少しなので、あえてそのことを伏せていた。
この症状は毎年出るものであるため、特に気にするほどのことでもない。そう思い、二人には何も言わずにいたのである。
ところが、一瞬意識が遠退き、危うく真っ白な世界に連れこまれそうになる。
(お願い、もう少しだから……!)
自身に言い聞かせ、一歩また一歩と歩を進めてゆくのだが……突然足から力が抜け、視界がぐるりと大きく回る。それを最後に雪姫の意識は途切れ、鈍い音と共に地面に崩れ落ちてしまった。
「え? って……おいっ! 雪姫っ? どうした!」
「ちょっと、嘘! しっかりしてっ!」
その音で振り返った幼夢と佳月が、慌てて駆け寄り、雪姫を抱き起こす。
「雪姫! ねぇ、雪姫ってば!」
幼夢が揺すって呼びかけてみるものの、当人は完全に気を失ってしまっているらしく、頭をがっくりと垂らしたまま動かない。
二人にも緊張が走った。
「まずいな。身体にも熱がこもってるみたいだ」
佳月は険しい表情で唇を噛んだ。
雪姫の額からは幾筋も汗が流れ落ち、上気した頬にかかっている。
慌てて辺りを見回した幼夢が何かに気付き、佳月の肩を叩くと街道の先を指差して叫んだ。
「佳月、見て! あれ!」
示す先には、小さな村があった。
「よし!」
佳月は頷き、素早く雪姫を背負う。そのまま二人は駆け出し、すぐさまその村まで雪姫を担ぎ込んだ。
(ここは……)
意識を取り戻した雪姫は、今までのことは全て夢で、自分はまだ風見ヶ丘にいるのではないかと思ってしまった。霜白から使いが来たということも、薄いながらも氷姫と同じ血を引いているということも、すべてがただの夢だったのではないかと錯覚した。
しかし、ぼんやりとしていた視界が徐々に定まり、周囲の見慣れぬ景色がこの場所を故郷ではないのだと知らせる。
やはり夢などではなく、雪姫は氷姫を捜すため、学者に会いに水澄を目指している途中なのであった。
(それにしても……)
おかしい、と雪姫は思った。たしか、先ほどまで街道を歩いていたはずである。ところが、気付けばいつの間にやら家屋の一室で布団の上に寝かされている。いったいここは何処なのだろうか。
上体を起こして確認をしようとした正にその時、今まで天井だけしか映していなかった少女の視界の隅から、ひょっこりと幼夢が現れた。
「あっ、気が付いたっ? よかったぁ……!」
幼夢は上から雪姫の顔を覗き込み、安堵の表情を浮かべる。ところが一頻り安心すると、今度は目と眉を吊り上げ、憤慨しだした。
「もーっ! いきなり倒れるんだもん。心配したんだからねっ? 本当にびっくりしたんだから!」
この様子から、途轍もなく心配をかけてしまったことがわかる。
「ご、ごめんなさい」
彼女の剣幕に気圧されながらも、雪姫は起き上ろうと身動いだ。察した幼夢がすかさず背中に手を添え、支えに入ってくれる。
「もういいの? はい、お水」
「ありがとう」
幼夢の声にはもう怒気は含まれていなかった。雪姫は差し出された湯飲みを受け取り、一気に傾けた。
ひんやりと冷たい水が口内に行きわたる。同時に唾液が粘ついていたことに気付かされ、今になってこんなにも喉が渇いていたことを知った。
喉を鳴らしながら、急速に染みわたってゆく感覚に、少女はぎゅっと目を瞑った。この時ほど、水をありがたいと感じることはない。
「冷たくって、美味しい……」
口の端から垂れ落ちそうになった滴を手の甲で拭い、雪姫は幼夢に明るく笑いかける。
「生き返ったわ。ありがとう。具合の方も、もう大丈夫みたい」
「本当っ?」
今の笑顔で心配が和らいだのか、幼夢にも元気が戻ってきた。彼女は空いた湯飲みを受け取り、盆に置くとここまでの経緯を説明してくれた。