序章
「緑助様、今のところ動きはないようです」
その声は天井から降ってきた。
夜の闇に紛れ、とある屋敷の一室に落とされた若い男の声。間もなくしてそれに応えがあった。
「ご苦労だった」
返ってきた声は、低く嗄れていた。緑助と呼ばれた老年の男性は、文机に目線を落としたまま、屋根裏に身を潜める家臣にこう告げる。
「では、引き続き離宮の見張りは頼んだぞ」
「承知しました」
返事のあと、頭上から家臣の気配が消える。
静まり返った真夜中の部屋に一人残った緑助は、深く溜め息をついたのち、顎髭を撫でながら近くに置かれている燭台の焔に目をやり、唸る。
(だが、そろそろ……だな。油断はできん)
闇の中、ぼうっと朱色に照らされて浮かび上がる顔に、影がよりいっそう濃く皺を刻み込んでいる。そのせいで実際よりも幾分か老けているように見えるのだが、瞳だけは違っていた。老年であることをまったく感じさせないほどに、この男の眼光はどこまでも鋭く隙がない。
(なんとしても、疾風様をお護りしなくては……)
緑助は口を固く引き結んで顎髭から手を離すと、腕を組んでまた小さく唸った。
近々“事”は起こるのであろう。朝廷に長年勤めてきた緑助の、武官としての勘がそう告げているのだ。
“事”が起こる前に、なんとか手を打たなければならない。護ってやらなければならない。そうしなければ確実に、そしていとも簡単に彼はこの世から消されてしまう。
(しかし、どうやって……)
緑助は目を閉じて何やらしばらく考えを巡らせたあと、徐ろに筆をとった。
ふわりと墨の香りが広がり、暗い部屋に紙と筆の擦れる音が深深と響く。
何かが始まろうとしていた。動き出そうとしていた。
始まりの春は、もうすぐそこまで来ていた。