第六章 皇子と村娘 弐
雪姫は凍りついた。
(私、最低だわ。病気の人に病気のこと聞くなんて……)
己の無神経さに唇を噛む。すべてはもう遅かった。それでも謝ろうと言葉を発しようとした、その時。
「伯父上は僕が怖いんだ。次に皇位を継げるのが、僕だけだから」
雪姫が口を開くよりも僅かに早く、疾風の声が響いた。先ほどまで暗かったはずの表情も、今や一変し、彼の瞳には冷たい光が宿っている。
「……えっ?」
「本当は、僕が病気だというのは嘘なんだ。僕がここから出られないのは、伯父上の命令だからなんだよ」
「伯父上の、命令……?」
伯父上、そして命令という言葉から、雪姫の脳裏に一人の人物が浮上する。
「まさか……帝が?」
そんなまさかと、雪姫は耳を疑った。若草の帝は優しく、温厚な人だと聞いている。そのような人が疾風を閉じ込めておくだなどと、にわかに信じることができない。
「僕にその気がなかったとしても、陰で支持する者が現れるかもしれないだろう? だから病気がちだということにして、御所から遠ざけているんだ。そうまでして生かしておくのは、叔父上の身に万が一のことがあった場合に備えて。さっきも言ったとおり、次に皇位を継げるのが僕だけだから」
疾風は一気に、淡々と語った。
(そんな……それじゃあ疾風は──)
──ただの、予備。
少女の身体から力が抜けてゆき、辺りの空気が重たく伸し掛かる。
恐ろしくなった。膝は震えだし、返す言葉もなく雪姫はそのまま疾風を見つめることしかできなかった。
できればこんな話を聞かせたくはなかったと、疾風は目の前で驚愕のあまり動けなくなってしまった少女をぼんやりと眺めた。
疾風は、自らをなんと愚かなのだろうと呪いつつも、譲ることができなかった。このことを話してしまえば、雪姫が気負ってしまうだろうことも、これが自分の勝手な我儘であるということも、わかっていた。
それでも、どうしても彼女に告げておきたい、告げるなら今しかないと思ったのだ。
「雪姫は明後日の朝、風見ヶ丘へ帰ってしまうんだろう?」
「え、ええ」
そう、雪姫は帰ってしまう。
だから。だからこそ。
「覚えていてほしいんだ、僕のことを」
「な……何を言うの? 当たり前じゃない! 私、風見ヶ丘に帰ったってあなたのことを忘れたりなんかしないわ!」
雪姫はもう勘づいているようであった。疾風が何か重要なことを言おうとしている、ということに。その証拠に瞳は揺れ、声も少し上擦っていた。
「そういう意味ではないんだ」
疾風は静かに首を振り、少女の揺れる瞳をしっかりと捉え、続けた。
「僕はいつ消されるか分からない、そういう立場なんだ。必要なうちは生かしておくけれど、必要がなくなれば途端に消される。だから覚えていてもらいたいんだ、君に。“疾風という名の皇子が、この世にいた”ということを」
「──いやよ! 待って……!」
聞くや否や、雪姫は叫ぶようにして疾風に詰め寄った。
「そんなこと言わないで……」
今にも泣き出しそうな顔であった。少年にすがる、その小さな肩は震えていた。
「消されるって、まさか……」
「そう、暗殺だよ」
雪姫が言うよりも先に、疾風が冷たく言い放つ。聞かされた方よりも当人の方が、よほど冷静であった。
「…………まぁ、そうならないように緑助や藤太がいてくれるんだけどね」
にこりと笑い、疾風は先ほどとは打って変わって、おどけたような口調でそう告げる。
「ごめん、雪姫。突然こんなことを聞かされて、驚いただろう?」
疾風は俯いている少女の肩に手を置き、労るように そうっと窺った。雪姫は口を真一文字に引き結び、こくりと小さく頷く。
(疾風がまさか、こんな生と死の狭間にいただなんて……)
今の話もまだ信じられないし、信じたくもない。けれども、これがおそらく真実なのであろう。ただの村娘の自分には、どうすることもできない。それこそ、疾風を覚えておくぐらいのことしか。
「……はや、て」
いつも通りに声を発したつもが、実際は絞り出したような、か細いものにしかならなかった。
「ん?」
「外……空気、吸いたい」
雪姫は疾風の袖の端を小さく掴むと、外に出ようと促した。とにかく気分を変えたかったのだ。
自分がこのまま落ち込んでいたら、疾風は今言ったことを後悔してしまうに違いない。しかし、そうはさせたくなかった。疾風は言おうか言わまいか、迷ったはずである。そんな彼の決心を無駄にしたくはなかった。
(今の私にできることは、疾風と楽しく過ごすことだけ……)
「うん、わかった」
疾風の優しい声が、顔を俯かせたままの雪姫の上に降り落ちる。
「それじゃあ……外、行こうか」
二人は、静かに書庫を出ていった。