第六章 皇子と村娘 壱
何だ彼だと過ごしているうちに、雪姫が若草にいられるのも、今日を含めて残り三日となった。
(村のみんな、今頃どうしているかしら……)
あれほど嫌がっていた若草の滞在も、疾風と出会えたお陰で毎日を楽しく過ごすことができていた。しかし、そろそろ風見ヶ丘が恋しくなってきた。帰れば、おそらく椿と紫苑の質問攻めが待っているのだろう。それでも、雪姫は今すぐにでも二人に会いたいと思った。
「──さてと、今日のお土産は何にしようかしら」
一昨日は桜餅を、昨日は花を持って行った。
宿から少し歩いたところに空き地があり、そこに綺麗な花が咲いていたことを思い出した雪姫は、何本か摘んで持っていったのだ。
ちなみに花は小さな花瓶に差し、今も疾風の部屋に飾ってある。
雪姫はしばらくの間、何かよいものはないかと町を歩き回ったが、結局決まらなかった。仕方がないので、今回は諦めて手ぶらで行くことにした。
「おはよう、疾風!」
いつものように林を抜け、雪姫が縁側から部屋の奥に向かって声をかけた。呼ばれた本人が待っていましたとばかりに顔を出す。
「おはよう、雪姫!」
「ごめんなさい、今日はお土産がないの」
しょんぼりと申し訳なさそうにする雪姫に向かって、疾風は花のように柔らかに微笑んでみせた。
「なんだ、そんなこと気にしなくていいのに。僕は雪姫が来てくれるだけで十分だよ」
疾風は昨日から自身のことを“僕”と呼ぶようになっていた。雪姫に皇子と巫女とを間違えられ、そのことから“私”という呼び方をやめたのである。
「上がって。今日は雪姫に見せたいものがあるんだ」
「私に見せたいもの?」
はて、見せたいものとはいったい何だろうか。部屋に上がるよう促す疾風は、まるで悪戯を企んでいる子供のような、やたらと嬉しそうな顔をしている。
部屋の奥へ通された雪姫は、疾風に連れられて廊下を進んだ。突き当たると、そこには木の戸がひとつあり、開ければ中は書庫となっていた。
この建物自体が大きくはないので、書庫もまたそれほど広くはない。しかし、中には所狭しと書物や書巻が置かれていたので、雪姫は驚いた。はっと息を飲み、よくもまあこれだけ入ったものだと思わず感心する。
書棚はいくつもあったが、どれもいっぱいになっていた。もう入りきらずにあふれた分が、床のあちこちに堆く積み上げられている。そのため、書庫は足の踏み場がほとんどない状態であった。
「もしかして……これ、全部読んだの?」
雪姫の素朴な疑問に、隣の少年は「うん」と軽く一言。さも当然とばかりに答えた。
「物語もたくさんあるから、好きなものを読みなよ。この前、雪姫は物語が好きだと言っていただろう?」
思わぬ申し出に、雪姫は瞳を真ん丸に見開かせた。
「いいの?」
「もちろん!」
疾風が微笑みながら頷くと、少女の見開かれた瞳がきらきらと、日にかざした硝子玉のように輝きだす。
「わぁ……! ありがとう、疾風!」
雪姫ははしゃぎながら、次々に書物を捲りはじめた。その様子を、少年が後ろから嬉しそうに眺めていた。
(それにしても、本当にすごい量だわ)
もしや床が抜けてしまうのではないかと、心配になるほどである。書は、物語だけでなく医学に関するものや歴史上の人物の伝記と、難しそうなものも多かった。
雪姫が見て回っていると、物語がまとめられている場所を見つけた。読んだことのない話ばかりだったので、どれにしようか迷っていると、ふと一冊の本が目に留まった。
「これって……」
他のものに比べると薄かった。表紙には『氷姫』とだけ書かれている。雪姫が手に取り、中をぱらぱらと捲ると、やはり思った通りであった。若草とその周辺の国々に伝わる伝説、氷姫である。
これは、“白き闇”という災いの霜が降りる時、生まれ持った強い霊力で一早くそれを察知し、防いでくれるという不思議なお姫様の物語であった。とても有名な話で、雪姫も幼い頃から馴れ親しんできたものである。
「氷姫?」
いつの間にやら背後に来ていた疾風が、雪姫の肩越しに書物を覗いた。
「ええ。小さい頃によく聞かされていた話だったから、懐かしくって。ちょっと手に取ってみたの」
雪姫は声を弾ませながら、その場でくるりと身を翻した。
「ねぇ、疾風ってずいぶんと難しい本をたくさん読んでいるのね」
身体ごと疾風の方へと向き直る。しかし、彼の長い睫毛は、そっと儚げに伏せられた。
「……いや、ただすることがないだけなんだ。武術の練習をするか、本を読むぐらいのことしか」
最後、「どうせここから出られないしね」と寂しそうに笑って見せる。その笑みには、どこか自嘲が含まれているように思われた。
「まさか……病気、だから?」
雪姫が恐る恐る尋ねてみると、疾風はさっと表情を消し、急に黙ってしまった。