第三十二章 氷姫がくれたもの(後) 肆
「疾風。私ね、あなたを迎えにきたの」
「うん、知ってる」
彼は穏やかな口調で腕を緩めると、雪姫を見た。
「ついさっき情報が回ってきて、びっくりした。君は帝から僕の命を恩賞にもらうつもりでいるんだね」
「驚いた……さすがは忍びの村ね。何でも筒抜けだわ」
雪姫は困ったように笑い、それから表情を改めて首肯する。
「ええ、そのとおりよ」
「でも、本当に僕でいいの? きれいな着物でも、貴重な宝玉の首飾りでも、風見ヶ丘にとって有益な道具でも、望めば何だってもらえるはずなのに……」
雪姫は否と首を振った。
「だって、私はあなたがいいんだもの」
少年の頬に両手を伸ばし、ふわりと優しく包み込む。そのまま瞳を捉え、
「好奇心旺盛で無邪気な、正直で誠実な、強くて優しい疾風がいいの!」
言い聞かせるように、しっかりと、はっきりと。恥じらいながらも、真っ直ぐに本心を伝える。
「これが私の、あの時の返事。私も、あなたのことが好き。だからお願い。どうか私の恩賞になって? あなたが私のものになれば、もう誰も奪えない。手出しだってできない。それは緑助様だけでなく、あなたの叔父上──帝だって例外ではないわ。何といっても、緋那と水澄と霜白の三国が味方についているんだもの」
そう言って、希望と自信に満ちあふれた笑みを弾けさせる。
「雪姫……」
疾風は感極まった今にも泣きそうな顔で、頬にかかる手にそっと触れた。
「ありがとう……うん、行くよ。君と行く」
答えと共に雪姫の手を上から優しく握る。
それから二人は、どちらからともなく目を閉じて唇を触れ合わせた。
──後日、夜。
風見ヶ丘のとある民家から、明かりと賑やかで楽しげな声が漏れていた。
居間では、雪姫が帰還したことの祝賀と幼夢達の歓迎を兼ねた宴が開かれている。
雪姫の望みは、帝に聞き届けられた。疾風のことが無事に解決したあと、幼夢達はそのまま国に帰らず、寄り道をして風見ヶ丘まで二人のことを送ってくれたのである。
皆で囲炉裏を囲み、白峰と咲雪を交えて料理と酒を楽しみながら旅の思い出話に花を咲かせた。途中で幼夢と早智乃が舞を披露したりして、宴はますます盛り上がる。
雪姫は仲間ひとりひとりの笑顔を見ながら、若草の皇宮でのことを振り返った。
帝から謝辞を賜り、褒美は何がよいかと問われた雪姫は、嘆願書を提出すると共にある者の命がほしいと答えた。
そこに控えていた疾風が姿を現し、帝は驚愕する。
幼夢達が見守る中、疾風は帝に生き延びていたことを打ち明け、己の意思を伝えた。
帝の地位を害する気はないこと。若草の皇子はこのまま死んだものとして扱ってほしいこと。今後は一庶民として風見ヶ丘で暮らし、美味しい米を献上するので楽しみにしていてほしい、ということ。
疾風は今まで、帝に意思を伝えたことがなかった。帝もまた、疾風と関わりを持つことを避けて話し合いの場を持とうともしてこなかった。
双方の間で初めて握手が交わされる。向き合う機会のなかった両者は、ここでようやく和解したのであった。
「私ね、白状すると何でもできてしまう幼夢には嫉妬していたし、堂々としている早智乃のことは初め、恐いと思っていたの」
就寝前、雪姫は幼夢と早智乃の三人で自室から縁側に出ていた。雪姫を真ん中に、並んで腰掛けている。
「あはは、雪姫ってば度胸あるわねぇ。本人達を目の前にしてなかなか言えないわよ、そんなこと」
幼夢が苦笑する。
「でも、明日でお別れだし、それに相手が幼夢と早智乃だったから、隠さずにきちんと話しておきたかったの。私が二人のことを好きでいる限り、幼夢も早智乃も友達でいてくれる。私が醜い部分を曝らけ出しても、絶対に受け止めてくれるって、信じていたから」
「当然!」
「当たり前です。今さらそんなことで揺らいだりしません」
二人の返事には躊躇いがなかった。誇らしげですらある。
「あーあ、やっぱりすごいや、雪姫は。自分の醜いところとも向き合えて」
幼夢が後ろに手をつき、足をぶらぶらと揺らして遊ばせる。時折、突っ掛けていた草履が地面に擦れて微かな音が立った。
「私なんて、けっこう逃げちゃうからさ~」
「ええ。悔しいですけれど……雪姫のこういうところ、わたくしも見習わないとって思います」
「雪姫の影響で、早智乃もずいぶんと丸くなったもんねぇ?」
「なっ……! わ、わたくしは最初から素直で穏やかな性格ですっ!」
「えーっ?」
「──ふふっ」
雪姫が吹き出した。
「あ、ごめんなさい。ただ、幸せだなって思っただけなの。こんなやり取りも、明日からはもう当たり前でなくなってしまうから」
「……うん、そうだね」
「たしかに、会う機会はもう希になるでしょうね……」
幼夢が声の調子を落とし、早智乃もそっと目を伏せる。
「でもさ!」と幼夢が不意に顔を上げ、自信をもって微笑んだ。
「私達の友情は、絶対に消えたりなんかしないわ。これからはそれぞれの土地、それぞれの立場で、お互い頑張ってゆこうね」
「ええ」
「もちろんです」
雪姫と早智乃も微笑み、頷いた。三人は差し出した手を重ね、誓い合う。
空には満点の星が輝いていた。
そして最後の夜が更け、明けてゆく────
翌朝、ついに別れの時がやってくる。