第五章 雪と風(後) 弐
「ええっ! じゃあ、雪姫は私のことを女だと思っていたのかっ?」
今度は疾風が驚く番であった。面白い娘だとは思っていたが、まさか皇子と巫女とを間違えていたとは。
「だ、だって疾風があまりにも綺麗だったから、私、てっきり女の人だとばかり……」
雪姫は恥ずかしさのあまり、顔だけでなく耳まで真っ赤にし、半べそ状態になっていた。必死で申し開きする少女に疾風は苦笑しつつ、そんなに自分は女々しく見えるのかと秘かに落ち込む。
そしてそんな二人の一部始終を、少し離れたところから眺める二つの影があった。
「たしかに、あの娘に刺客は務まらんな」
顎髭に手をやり、頬を引きつらせながら ぼそりとこぼしたのは老年の現役武官、緑助であった。
雪姫がただの村娘だと知りつつも、念を入れて様子を見にやって来たのだが。やはり、今回も杞憂に終わったようである。
「彼女の場合、意表を突くという意味では刺客以上かもしれませんね……」
その隣から切れ長の目をさらに細くし、遠い目でそう呟いたのは緑助に仕える忍びの青年、藤太であった。
まさかの展開に二人は言葉を失い、しばらくの間、固まったまま動くことができなかったという。
「実に面白い娘さんですな。雪姫殿は」
庭の草を踏み揺らし、疾風の背後に緑助と藤太が現れた。
「緑助、来ていたのか」
「ええ。疾風様、この緑助が武術の稽古をもっと厳しくおつけいたしましょう。さすれば男らしさも上がり、巫女にはもう間違われますまい!」
そう言ってからかいを込め、高らかに笑ってみせる。この様子から、雪姫は今までの会話を聞かれていたのだと知り、恥ずかしくて居た堪れなくなった。赤くなっていた顔が、さらに赤くなる。
そこで「そうだわ!」と、とっさに持っていた桜餅の包みを解きはじめた。
「あの、これ! 今、町で評判のお店の桜餅なんです。どうぞ!」
雪姫はぎゅっと目を瞑り、二人の前に差し出した。
「疾風も、どうぞ!」
本当は昼食のあとに皆で食べるつもりでいたのだが、予定変更である。話題を逸すため、今ここで使用することにした。
ところが三人とも黙ったまま、一向に手をつけようとしない。雪姫は初め、皆そろって遠慮でもしているのかと思ったが、どうやら違うらしかった。三人とも気まずそうに視線をさ迷わせ、雪姫にかける言葉を探している。
何かまずいことでもしてしまったのだろうか。そんな不安に駆られはじめた時、最初に沈黙を破ったのは疾風であった。
「緑助、雪姫は私が皇子だと知らなかったんだ。だから心配ないよ」
「しかし……」
老人は困ったように眉を寄せ、言葉を詰まらせる。
「緑助」
「しかし、ですな……!」
「雪姫がどんな人物なのか、もう十分にわかっただろう? 大丈夫だから」
疾風の真剣な眼差しについに耐えきれなくなったのか、緑助は肩から力を抜き、大きく息をついた。
「……分かりました。今回だけ、特別ですぞ」
弱々しい声であった。目を閉じ、ゆっくりと首を縦に振って降参する。
「ありがとう、緑助」
疾風は声を和らげ、微笑んだ。
「雪姫、ありがとう。いただくよ」
疾風は少女から桜餅を受け取り、しげしげと眺めたあと、頬張った。口に含んだ途端、広がる独特の香りに目を丸くする。
「ん……! 本当だ、美味しい! 雪姫が教えてくれたとおりだ。甘くて、でも少ししょっぱくて、すごく美味しいよ。ありがとう、雪姫」
少年は破顔し、確かめるかのように二口目を堪能しはじめる。向けられたその笑顔は、まさしく雪姫が想像していた笑顔そのものであった。
(やっぱりお土産、持ってきてよかった……)
緑助と藤太にも桜餅を受け取ってもらい、雪姫も最後に残った己の分をぱくりと頬張る。
都で評判のお店というだけあって、今まで食べた中で一番美味しく感じられた。しかしそれは単に桜餅が美味しかったからだけでなく、皆で一緒に外で食べたから、というのも大いに関わっている気がした。
本来ならば疾風は皇子という立場から、決められたもの以外……増してや外部から持ち込まれた物など、一切口にすることができなかったらしい。ところが今回、雪姫には毒を盛るような心配がないとされ、特別に許可が下りたのだという。
疾風は皇子なのだ。毒を盛られる可能性があって当然で、それを避けるために注意を払わなければならない、というのもまた当然のことであった。
緑助からそう聞かされ、雪姫は改めて自身がとてつもない人物と友達になったことを思い知ったのであった。
「雪姫殿、今日は馳走になった。しかし、申し訳ないが先ほども言ったとおりだ」
四人は日が傾くまで庭で一緒に過ごしていた。夕刻の鐘が鳴り、雪姫が帰るために立ち上がって草を払っていた時、緑助が念を押した。
「はい。明日からお土産は食べ物以外にします。それでは、お先に失礼します」
雪姫がぺこりと頭を下げると、疾風も続いて立ち上がった。
「塀のところまで送っていくよ」
疾風も素早く草を払う。それから二人は仲良く肩を並べると、また何か楽しそうに話しながら林の方へ向かって行った。
残った緑助と藤太は草の上に座ったまま、だんだんと小さくなってゆく二人の後ろ姿を見送りながら、ぽつりぽつりと会話をはじめた。
「私は、どうかしているのかもしれんな」
「……外からのものを許可したことについて、ですか」
「ああ」
返ってきた緑助の口調は、淡々としていた。やや間を置いてから、藤太が答える。
「彼女が“ただの村娘”だから、でしょうね。つい気を許してしまうのは」
藤太はふと表情を緩め、後ろに両手をついて夕空を仰ぐ。
「──疾風様も、我々も」
そう、雪姫は権力に関してまったくの無知である。だからこそ、緑助も藤太も安心して付き合うことができるのだ。
おそらく、このような機会が巡ってくることは二度とない。疾風もそれを重々承知している。
「まったくだ。ここ、宮中では人を疑わんとやっていけぬからな」
緑助は苦笑しながら、先ほどの疾風の笑顔を思い浮べた。長年の付き合いではあったが、あれほどはしゃぐ姿を初めて見たのだ。
緑助は大きく息をつき、二人が消えた林の方をじっと見つめた。
西日に照らされた林の木々たちは、ざわりとただ春風に揺れていた。
「それじゃあ疾風、また明日も来るわね」
雪姫は、今日一日で“疾風”と名前で呼ぶことにもだいぶ違和感を感じなくなってきていた。
「うん、待っているよ。あと、お土産どうもありがとう。桜餅、初めて食べたけれど、とても美味しかった」
「喜んでもらえて私も嬉しいわ。それじゃあ、また明日」
通りに人の気配がないことを確認し、疾風が板をずらす。そこへ雪姫が膝をつき、素早く隙間に潜り込んだ。
この出入り口にも初めは驚いたが、今となってはちょっとした愛着も湧きはじめていた。子供の頃に作った秘密基地が思い出される。やはり、誰かと秘密を共有するのはドキドキして楽しかった。
塀の外へと這い出た雪姫は、疾風と一緒に急いで板を元に戻し、何事もなかったかのように夕焼け色の町に紛れていった。
(それにしても、疾風がまさか男の人だったなんて……)
一人歩きながら、雪姫は昼間のことを思い返した。
女性である自分よりも、ずっと綺麗で美人な疾風。
(正直、へこむわ……)
溜め息と共に肩を落とせば、足も自然と とぼとぼ歩きになる。
そう、疾風は男なのだ。見た目は華奢で女性のように美しくとも、着物越しに感じられた身体は、間違いなく男性のものであった。
思い返しているうちにその時の衝撃や感触、着物に付いた香の香りまでもが記憶の中から甦ってきてしまい、少女は思わず顔を赤らめた。不可抗力とはいえ、親戚以外の男性に抱きつくなど、初めてのことである。
恥ずかしさのあまり居た堪れなくなった雪姫は、橙色に染まる宿までの道を全力疾走したのであった。