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ぽっくりボタン  作者: 瀬川雅峰


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2/11

1章 適当価格(上)

 坂口和樹は四十一歳で、貯金が十一万円だった。


 仕事はある。スーパーの青果部門に正社員として勤めて十八年になる。給料は安定しているが、毎月きっちり生活費に消えて、手元にほとんど残らない。ギャンブルをするわけでも、飲み歩くわけでもないのに、なぜかいつも懐は心許ない。今月は洗濯機が壊れたのが響いた。新品は高かったが、中古を買ったら三ヶ月でまた壊れた経験があるので、仕方なく12回のローンを組んだ。


 家賃の引き落としも来週に迫っている。残高を見るたびに、微妙な気持ちになる。


 そういう事情もあって、坂口がフリマアプリを開いているのは、半ば習慣みたいなものだった。部屋の中で使っていないものを売っては、小銭を補填する。フリマ歴は五年になる。これまでに売ったものは、古いゲームソフト、読み終えた漫画、一度だけ使ったキャンプ用品、前の彼女に買わされたヨガマット、その他もろもろ。


 部屋を見回した。

 目についたのは、テレビの脇に置いてある白い小箱だった。

 ぽっくりボタン、というやつだ。


 一ヶ月ほど前、アパートのポストに入っていた。差出人の名前はなかった。中を開けると白いクッション材に収まったプラスチックケースがあり、その中に台座に埋まった赤いボタンが入っていた。同封の紙に一行だけ書いてあった。――押すと、楽に逝けます。


 都市伝説で見たやつだ、と坂口はすぐに思った。送ってきた相手に心当たりはない。タチの悪いいたずらか、誰かが気まぐれで送りつけてきたのか、あるいは番地を間違えたのか。

 使う気は、ない。

 ただ、捨てる気にもなれない。白い箱はそのままテレビの脇に置かれ、今日に至る。


 坂口はしばらくボタンを眺めてから、スマホを持ち上げた。

 これ、売れないかな、と思った。

 思ってから、少し笑った。売れるわけがない。都市伝説のボタンを出品したところで、変人扱いされて終わりだ。詐欺行為になるかもしれない。自殺の……なんと言ったか、手助けをしたことで罪になるなんてこともあった気がする。ジョークグッズとしてなら……ありだろうか。


 逡巡しながらも、フリマアプリのカメラボタンを押す指はすでに動いていた。



 出品した。


 商品名:「ぽっくりボタン(都市伝説のやつ)」


 説明文:知人から譲り受けましたが、使用する予定がないため出品します。押すと苦痛なく死ねる、自然死扱いになる、という触れ込みのボタンです。本物かどうかは確認する方法がないため、わかりません。箱入り、未使用です。ジョークグッズ、ジャンク品扱いでお願いします。


 価格:10,000円


 画像は白い箱と、箱を開けて赤いボタンが見えているところを二枚。


 出品してから五分後、値段を10,000円から100,000円に上げた。どうせ売れないなら強気でいいだろう、出品そのものが冗談のようなものなのだ、という気持ちで。


 翌日、質問メッセージが来た。

「これ、本当に届くものですか?」

 坂口は少し考えてから、「実物が届きます。ただ本物かどうかは保証できません」と返した。

「本物かどうか確認したい場合はどうしたらいいですか」

「押すしかないと思います」と返した。

 それ以上の反応はなかった。



 三日後、前回とは別のアカウントからメッセージが来た。

「購入を検討しています。一点だけ確認させてください。あなた自身はこれを使わないのですか」

 坂口は少し間を置いてから「使いません」と返した。

「理由を聞いてもいいですか」

「死にたくないからです」と打った。送信してから、当たり前すぎる返答だったと思った。

「そうですか」とだけ返ってきた。


 翌日、また同じアカウントからメッセージが来た。

「失礼ですが、値段を教えていただけますか。表示されている10万円というのは、本気の値段ですか」

「本気ではないです。思いつきで適当につけました」

「では、本気の値段はいくらでしょうか」

 坂口はその質問に少し詰まった。本気の値段、と言われても、そもそも適正価格がわからない。都市伝説のボタンの相場など、どこにも存在しないのではないか。

「わかりません。いくらなら買いますか」と聞き返した。

「いくらでも買います」


 それを読んで、坂口はすぐに返事を書けなくなった。

 いくらでも、という言葉の重さに、はっと目が覚めた気がした。



 坂口は相手のアカウントのプロフィールを見た。

 写真はない。自己紹介欄には「出品はしていません」とだけある。評価は購入者として数件あって、いずれも「丁寧なお取引でした」という内容だった。


 アカウント名は「hana_1958」。


 1958年生まれ、ということだろうか。だとすれば、もう六十代だ。

 坂口はしばらく考えてから、メッセージを打った。


「一つ聞いてもいいですか。このボタンをどう使うつもりですか」

 返事は思ったより早く来た。

「使いたいと思っています」

 使いたい、と言い切った。

 坂口はスマホをしばらく置いて、天井を見た。



 次のメッセージを送るまでに、三日かかった。

 どうしようか、書くか書くまいか。三日考えた末、書くことにした。

「すみません。失礼な質問だったら申し訳ないんですが、病気ですか」

「はい。余命については宣告を受けています」

 予想はしていたが、あっさり言われると心臓が動いた感じがした。

「そうですか」と打ってから、何か続けようとして、うまい言葉が出なかった。

「気を遣わせてしまいましたね、すみません」と先方から来た。

「いえ、だいじょうぶです」と返した。


 しばらくやりとりが止まった。坂口の方から、もう一度打った。


「苦しいですか、今」

「今は、そうでもないです。ただ、そうなる前に、ということです」

「なるほど」

「おかしいでしょうか」

「おかしくないと思います」と坂口は打った。打ってから、本当にそう思っているかどうか確認した。本当にそう思っていた。


「ありがとうございます」

「お名前、聞いてもいいですか」と坂口は打った。フリマアプリのやりとりとしては、ルールから逸脱した質問だった。

「花田、といいます。花田静子。失礼ですが、あなたは?」

「坂口です。坂口和樹といいます」


 花田からのメッセージは、真っ直ぐだった。


「坂口さん、このボタンを、私に売ってください」


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