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灰塵より飛翔する鳳凰 ~ 大明帝国始祖・洪武帝伝 ~親兄弟餓死、托鉢乞食放浪から、「世界最大の帝国」を創始した男の実話~   作者: 如月妙美


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第3章 托鉢の行脚 ―― 乾坤(けんこん)を師とする三年間

3-1:山門の訣別 ―― 「物乞い」という名の修行

 至正四年(一三四四年)の秋。  安徽省鳳陽の空を渡る風は、本来であれば黄金の収穫を告げる喜びの調べであるはずだった。しかしその年、風が運んできたのは、死者の肌のような冷たさと、荒廃した土地から舞い上がる乾いた砂埃すなぼこりだけであった。

 皇覚寺こうかくじ。  朱重八しゅ・じゅうはちが家族を亡くし、命からがら逃げ込んだその古寺もまた、仏の慈悲が底を突いた奈落の淵に沈んでいた。  本堂の屋根瓦は無残に剥げ落ち、露出したはりを青白い月光が白骨のように照らし出している。かつて黄金の輝きを放っていた仏像の金箔は、寺男たちが飢えを凌ぐために削り取ったのか、あるいは時の無常が剥がし去ったのか、今は土気色の素地そじをさらけ出し、衆生の呻きを無表情に見下ろしていた。

 寺の鐘の音は、かつては村人に時を告げ、心の安らぎを運ぶ調べであった。しかし今、その音は、死を招く葬列の合図のように重苦しく響いている。  「重八よ、よく聞け」  奥殿の、かびの臭いが立ち込める暗がりの中で、老住職が掠れた声を絞り出した。  かつては豊かな顎鬚あごひげを蓄え、威厳に満ちていたその背中は、今や立ち枯れた老木のように折れ曲がっている。その瞳には、衆生を救う慈悲よりも、明日をも知れぬ飢えへの恐怖が滲んでいた。

 「もはや、この寺には救いはない。一握りの麦も、一滴の菜のなのしるも残っておらぬ。……仏罰ではない。これが、今の世のことわりなのだ。本日限りで山門を閉ざす。お前たち修行僧は、今日この時から、各自で托鉢たくはつに出て、己の命を繋ぐがよい」  老住職は震える手で、重八にいくつかの品を手渡した。  「生きて、再びこの山門を潜る日が来ることを……ただ祈るのみだ。行け。一歩でも遠くへ、命のある方へ歩むのだ」

 重八に与えられたのは、縁が欠け、錆びついた鉄の鉢一つと、節の多い竹の杖一本。  そして、何十箇所も継ぎ接ぎが当てられ、垢と脂で黒ずんだ「百衲衣ひゃくのうえ」と呼ばれるボロボロの法衣であった。  「托鉢」 ―― それは聞こえの良い仏教の修行名目であるが、実態は、命を懸けた「公認の物乞い」に他ならない。

 十六歳の少年、朱重八は、背後に遠ざかる皇覚寺の山門を一度も振り返ることなく、安徽から河南へと続く広大な平原へと歩みを進めた。  足元は、わらを編んだだけの粗末な草履ぞうり。一歩踏み出すごとに、乾いた土の粒子が足のひび割れに食い込み、鋭い痛みが走る。  だが、彼の胸中にあったのは恐怖ではなかった。それは、自分を地の底まで突き落とし、家族を奪い去ったこの世界に対する、氷のように冷たく、刃のように鋭い「観察眼」であった。


3-2:泥土の教場 ―― 衆生の呻吟と地の理

 そこからの三年間、重八は「乾坤けんこんを師とする」凄惨にして広大な行脚あんぎゃを続けることとなった。  道中、彼が目にしたのは、人間が人間でいられる境界線を踏み越えた修羅の光景であった。  河南の街道筋では、飢えに耐えかねた農民たちが、自らの住処であったあばら家の屋根から藁を引き抜き、それを煮詰めてかゆの代わりに啜っていた。  またある村では、作物の種を奪い合う兄弟が、手入れもされていない錆びた「鉄鍬てっしゅう」を武器にして殺し合う姿を見た。

 重八自身も、飢えとの果てしない格闘を強いられた。  一口の食糧を求め、村の有力者の屋敷の前で泥に額を擦り付けても、返ってくるのは冷酷な罵声か、あるいは無言の石礫いしつぶてであった。  「坊主! 貴様にやる菜の汁など一滴もないわ! さっさと失せろ、この疫病神め!」  そんな時、彼は道端に生えるにれの木の皮を剥ぎ取り、口の中で粘り気が出るまで噛み締め、僅かな水分で飢えを誤魔化した。  冬になれば、凍てつく北風が皮膚を剃刀かみそりのように裂いた。重八は、凍死した野犬のむくろを見つけると、その毛皮の中に潜り込み、残された微かな腐敗熱で夜を凌いだこともある。

 しかし、その極限状態にあっても、重八の鋭い眼光は曇ることはなかった。  彼は、当時の社会を支配する「元朝」という寄生虫がいかに民の血を吸い尽くしているかを、その足裏で学んでいた。  モンゴル人の官吏たちが纏う、煌びやかな雲錦うんきん長袍ちゃんぱお。彼らが跨る、西域産の精悍な駿馬。それらを作り出すために、どれだけの農民が、自らの命を削り、泥の中に消えていったのか。

 「見ろ、あの馬車のわだちを」  街道の脇でうずくまる重八の横を、都へと送られる「歳幣さいへい」の列が通り過ぎていく。  積み上げられた米俵、鮮やかな絹織物、銀の塊。その重みで、馬車の轍は深く土を抉り、そこに溜まった泥水が、道端で倒れている老人の顔に降りかかる。官吏たちはそれを見向きもせず、笑いながら馬に鞭を入れる。  (これだけの富が動いているのに、なぜ民は死ぬ。……天が不公平なのではない。世の仕組みが、根底から腐り果てているのだ)

 彼はまた、土地の「表情」を記憶した。  どの川がどの季節に干上がり、どの森に食える根菜やキノコが眠っているか。どの峠に立てば四方の動きが見渡せ、どの隘路あいろなら少数の伏兵で大軍を足止めできるか。  文字を知らぬ少年にとって、中国大陸そのものが、彼の脳内に刻み込まれる巨大な「実戦的兵法書」となっていったのである。

 ある村では、地主が納屋の隅に隠していた「あわもち」を偶然見つけた。しかし、それを盗むことはしなかった。  「盗めば、俺はただの賊になる。……俺が求めるのは、この餅を誰もが隠さずに食える世の中だ」  空腹で胃壁が自らを削るような痛みを覚えながらも、重八は鉢を手に、再び歩き出した。


3-3:山河の誓い ―― 不滅の鉄則と龍の目覚め

 放浪の二年目。  重八は、河南の山中にある崩れかけたびょうで、一人の隠遁いんとんした老儒学者に出会った。  老人は、元朝の科挙(官吏登用試験)に何度も落ち、世の不条理に絶望して世捨て人となった男であった。二人は、焚き火を囲みながら、飢えを凌ぐために掘り起こした苦い野草の根を分け合った。

 「若き僧よ。お前の目には、野望という名の炎が宿っておるな。だが、火は使い方を間違えれば、自分のみならず天下を焼き尽くすぞ」  老学者は、すすけた衣の袖で口元を拭い、重八の瞳を覗き込んだ。  「良いか。国を統べるのは、武力ではない。『民の腹』だ。民が、明日も自分の米を噛み締められると信じられる『安心』こそが、国の礎石となるのだ。それがない国は、たとえ万里の長城を築こうとも、内側から崩れ去る。一億の民が、一握りの穀物を求めて爪を立てる時、いかなる王朝もその重みに耐えられぬのだ」

 重八は、その老人の言葉を、砂に水が染み込むように吸い込んでいった。  「……どうすれば、その『安心』を作れる。俺が見てきたのは、奪い合う力だけだ」  老人は、焚き火の灰の上に、指で九つの文字を記した。

 『高築牆こうちくしょう広積糧こうせきりょう緩称王かんしょうおう

 「城壁を高く築け。兵糧を広く蓄えよ。そして、性急に王を名乗らず、実力を養うのだ。……天は、最も長く耐え、最も深く民の痛みを知る者に、その天命を授ける。……重八、お前はその器になるつもりか」  重八は答えなかった。しかし、その夜、彼は初めて「自分の手で新しい国を創る」という、途方もない夢を具体的な戦略として意識した。

 この三年間の放浪。それは、後に一億人を統べる大明帝国の始祖・洪武帝にとって、血と涙、そして泥と糞尿の中で綴られた、世界最強の「帝王学の講義」であったのである。

 放浪の三年目の終わり。  重八は再び、懐かしき故郷・鳳陽の山門を見上げた。  三年前、割れた鉢一つを持って山を下りた、あの怯えた少年は、そこにはもういなかった。  頬は痩せこけ、肌は陽に焼けて赤銅色になり、法衣は最早その用をなさないほどにボロボロであったが、その歩みは地を揺らすほどに力強く、佇まいは周囲を威圧するような静かな威厳に満ちていた。

 門番を務める若い僧侶が、重八の姿を見て後ずさりし、震え上がった。  「……重八なのか? その目は、まるで山を統べる大虎のようだ……。いや、それ以上の何か、恐ろしい龍の如き光が宿っておる……」

 皇覚寺に戻った重八は、以前のようにただ経典を唱えるだけの僧侶ではなかった。  彼は、寺の蔵に眠る古びた竹簡ちくかんではなく、自分の足裏と胃袋で稼いだ「世界の真実」という名の血肉の経典を、その心臓に深く刻んでいたのである。

 「住職、戻りました」  本堂に現れた重八の声は、低く、しかし柱を震わせるほどに響いた。  「三年の行脚、何を学んだか」  老住職の問いに、重八は真っ直ぐに仏像を見据えて答えた。  「仏はいませんでした。しかし、民がいました。そして、怒りがありました。……この世を変えるのは、天の慈悲でも仏の加護でもありません。人の、この拳に込められた意志だけです」

 その夜、鳳陽の空を貫くように、一筋の巨大な流星が走った。  それは、元朝の終焉と、新たな「火」の時代の到来を告げる、不吉にして神々しい閃光であった。  朱重八。いや、やがて歴史を塗り替える男、朱元璋。  彼の本当の戦いが、今、幕を開けようとしていたのである。



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