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灰塵より飛翔する鳳凰 ~ 大明帝国始祖・洪武帝伝 ~親兄弟餓死、托鉢乞食放浪から、「世界最大の帝国」を創始した男の実話~   作者: 如月妙美


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第10章 結び:歴史が語る「真の希望」

10-1:遺詔に込められた泥土の魂 ―― 帰還する鳳凰

 洪武三十一年(一三九八年)、閏五月。  大明帝国の帝都、南京の空には、季節外れの重く湿った雲が低く垂れ込めていた。  湿り気を帯びた風が、奉天殿の反り返ったいらかの間を不気味な音を立てて吹き抜け、かつてない静寂が広大な皇宮を包み込んでいた。

 宮廷の回廊のあちこちに、一人の若き僧侶が「天を盗みに来た」と叫びながら駆け抜けたかのような幻視が、今も石畳に残っているかのようだった。  あの日、皇覚寺を飛び出してから半世紀近い歳月が流れた。  焦土から立ち上がり、鄱陽湖の地獄の業火を潜り抜け、一億の民の頂点に登り詰めた男、朱元璋。今、その巨星がまさに、歴史という名の地平の彼方へと沈もうとしていた。

 七十一歳となった皇帝は、寝所の窓から遠く鍾山しょうざんの稜線を眺めていた。その視線の先には、十六年前に先立った最愛の妻、馬秀英が眠る孝陵がある。

「秀英……、待たせたな。もうすぐ、お前の隣へ行くぞ。お前がいないこの十六年、天下はあまりに広く、あまりに寒かった。黄金の龍袍りゅうほうを纏っていても、俺の肌はあの日、雪の中で凍えていた時と同じように震えていたのだ……」

 掠れた声は、かつて百官を震え上がらせ、天をも揺るがしたあの雷鳴のような威厳を失っていた。しかし、深く落ち窪んだ眼窩の奥に宿る眼光だけは、最期まで曇ることはなかった。  それは、あの日鳳陽の泥土の中で、親を埋めるために素手で土を掻きむしっていた少年と同じ、凄まじいまでの「生存の意志」そのものであった。

 枕元には、次代を担う孫の朱允炆しゅいんぶんや、死を待つ老皇帝を恐る恐る見つめる側近たちが集まっていた。元璋は、震える手で彼らを招き寄せ、最後の遺詔ゆいしょうを口にした。その言葉は、一国の皇帝としての威儀を超え、一人の農民として、一人の「生き抜いた男」としての切実な響きを持っていた。

「……葬儀は極めて質素にせよ。民に無用な負担をかけるな。俺を神として祀る必要はない。俺は民の中から生まれ、泥を喰らい、そして民の土へと還るのだ。俺が作った『魚鱗図冊』に、俺自身の死も一筆書き加えればよい。……秀英との約束、一億の民に腹一杯の飯を食わせるというあの誓いを、決して忘れるな。それを破る官吏がいれば、黄泉の国からでも俺が首を刎ねに戻ってくるぞ」

 孫の允炆は、祖父の節くれ立った手を握りしめ、涙を流しながら頷いた。その手は、冷たいが、岩のように硬かった。

 朱元璋が息を引き取った瞬間、南京の街には悲しみというよりも、一つの「時代」そのものが完結したことへの、深い畏怖の沈黙が流れた。  乞食から皇帝へ。  それは、人類の歴史が始まって以来、後にも先にも例を見ない、最も極端で、最も苛烈な「逆転の物語」の幕切れであった。鳳凰は、その巨大な翼を静かに閉じ、自らを育てた泥土へと還っていったのである。


10-2:歴史の残響 ―― 泥土から築かれた三千年の教訓

 朱元璋という男が歴史のページに刻みつけたものは、単なる一王朝の創始という事実に留まらない。彼が遺したものは、人間が「ゼロ」、あるいは「マイナス」の極致から、いかにして世界を再構築できるかという、壮大な実証記録である。

 多くの英雄たちが「どん底から這い上がった」と美談で語られるが、その実態を冷徹に分析すれば、彼らの多くは何らかの「背景」という名の風に乗っていた。  例えば、幕末の志士たちは下級とはいえ武家という身分に属し、教育を受ける土壌があった。日本の戦国時代を終わらせた豊臣秀吉にしても、織田信長という稀代の天才に見出されるという絶大な「機縁」を掴んでいる。彼らには、跳躍するための「踏み台」が、僅かなりとも用意されていたのである。

 だが、朱元璋はどうであったか。  彼には、組織も、背景も、庇護者も、最初の一粒の米さえもなかった。  それどころか、彼は「死」と「絶望」そのものから出発した。目の前で、唯一の盾であった親兄弟が骨と皮になって餓死していくのを、ただ見ているしかなかった十六歳の少年の心境がいかばかりか。そのむくろを包むむしろ一枚すら手に入らず、地主に蹴り飛ばされ、指の爪が剥がれるまで土を掘って親を埋めた。この世のすべてが自分一人の死を望んでいるかのような、完全なる孤立。

 彼がその後、三年に及ぶ托鉢たくはつの放浪で学んだものは、既存の学問ではない。道端で石を投げられ、汚物のように扱われながら、彼は一秒たりとも自分の不幸を嘆くために時間を使わなかった。一歩歩くごとに土地の起伏を脳内に刻み、一口の「菜の汁(羹)」を恵まれるごとに人心の深淵を読み、一文字を学ぶごとに「二度と誰も餓死しない国」の設計図を、自らの血をインクにして心臓に書き込み続けた。

 彼にとって、努力とは「成功するための手段」でも「評価されるための装飾」でもなく、「生き抜くための唯一の呼吸」であった。彼が完成させた「魚鱗図冊ぎょりんずさく」の緻密な数字は、かつて一寸の土地も持てずに親を埋められなかった、あの日の少年の慟哭どうこくから生まれたものだったのである。  彼は皇帝となってからも、一日に数百通もの報告書を自ら読み、官吏の汚職には人外の厳しさで臨んだ。それは、彼が「民の痛み」を誰よりも知っていたからに他ならない。一億の民を統べる重圧に耐えられたのは、彼がかつて、自分の家族一人さえ救えなかったという「究極の無力感」を経験していたからである。

 朱元璋が築き上げた「大明帝国」のシステム――徹底した土地管理、自給自足の軍事組織、皇帝への権力集中――は、その後の清朝、さらには現代のアジアにおける統治構造の基礎を形作った。しかし、彼が歴史に遺した真の遺産は、目に見える制度ではない。  それは、「人間は、どれほどの絶望の中にいても、意志と行動さえあれば、運命という名の巨大な壁を粉砕し、自らの手で天命を書き換えられる」という、残酷なまでに純粋な、不滅の証明である。


10-3:鳳凰の飛翔 ―― 現代を生きる人々への不滅のエール

 現代を生きる我々の目には、朱元璋の物語はあまりに遠く、異世界の伝説のように見えるかもしれない。しかし、彼が直面した「不条理」の本質は、今の我々が抱える悩みと、驚くほど深い根底で繋がっている。

「自分には特別な才能がない」 「家柄が、環境が、学歴が恵まれていない」 「社会が不公平で、自分だけが損をしている」

 そうした嘆きが喉元まで出かかったとき、約七百年前のこの男の、鋭く光る狼のような瞳を思い出してほしい。  あなたの悩みは、親兄弟が目の前で餓死するよりも深いだろうか。あなたの孤独は、三年間、一言の温かい言葉もかけられず、泥水を啜り、野犬の死体と共寝をするよりも激しいだろうか。あなたの道は、一億の民の命という、宇宙にも等しい重圧を一身に背負い、死ぬまで書類の山と格闘するよりも険しいだろうか。

 否、断じて否である。  朱元璋という男が歴史という名の石碑に刻んだ足跡は、現代を生きる、あるいは明日の見えない闇の中にいる我々に対し、時を超えてこう告げている。

「運命を呪うな。運命とは、お前が諦め、膝を屈したときに完成する冷たい牢獄に過ぎない。お前が立ち上がり、血を流しながらも泥を掴んで一歩を踏み出すとき、運命そのものが、お前の足跡の前に震えてひれ伏すのだ。俺ができたことを、お前ができないと誰が決めた?」

 彼の「頑張り」は、決して美しいものではなかった。それは血にまみれ、疑心暗鬼に汚れ、時には無慈悲な粛清という暗い影さえ生み出した。一億の民を守るためには、一万の腐敗した官吏を斬らねばならないという、独裁者ゆえの悲哀もあった。  しかし、そのドロドロとした執念があったからこそ、一億の民は異民族の搾取から解放され、等しく「餅」や「菜の汁」を腹一杯にできる平和を手に入れたのである。彼が最期まで愛し続けた馬秀英との絆もまた、贅沢な絹の衣とは無縁の、泥の中から咲いた蓮の花のような、強く尊いものであった。彼女の存在こそが、彼が「人間」として踏みとどまるための、唯一の錨だったのである。

「道は、最初から舗装されているのではない。ましてや誰かが用意してくれるものでもない」

 これは、朱元璋がその生涯という名の太い筆で、歴史という名の紙に書き上げた、最後の一行である。

「お前が歩いた後に、道ができる。お前が頑張った分だけ、世界は力ずくで書き換えられる。道がないことを嘆くより、お前の足がまだ動くことを喜び、一歩を踏み出せ。その一歩が、一億の未来を変える始まりなのだ」

 読者諸君。  もしあなたが今、人生という名の暗闇の中にいるのなら、朱元璋と同じように、まずその足元を見つめてほしい。そこにあるのは、かつての彼が掴んだのと同じ、冷たくて硬い泥かもしれない。しかし、その泥は、あなたが鳳凰となって舞い上がるための、最高の、そして唯一の「跳躍台」でもあるのだ。

 物語はここで終わる。しかし、朱元璋が鳳陽の焦土で点した「希望の灯火」は、今も消えてはいない。彼が遺した物語は、現代に生きる我々が挫けそうになるたびに、地の底から響く野太い、しかしどこか懐かしい声となって、我々の背中を押し続けてくれる。

「頑張れ。ただ、ひたすらに頑張れ。お前が生きている限り、逆転の可能性は、天の星の数ほど存在する。……さあ、立て。泥を掴め。そして歩け」

 鳳凰は、今も我々の頭上を飛んでいる。  かつて鳳陽の焦土で慟哭どうこくし、爪を剥がしながら土を掘った一人の少年が、自らの足で作り上げた、その巨大な黄金の翼を広げて。  あなたが次の一歩を踏み出すとき、その鳳凰の羽が、あなたの頭上に一筋の、まばゆい光を落とすだろう。    どんな境遇の人でも、頑張れば必ず道は開ける。  大明帝国太祖、洪武帝・朱元璋。  彼の人生は、人類が未来へ繋ぐべき、史上最強の「頑張るマン」の不滅の教典なのである。


 ―― 完 ――



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