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(四)

 

 植物の国で一番活気のある通りは、主に食料品(肉や魚はもちろん、異国から仕入れた味のわからない野菜や香辛料など)を扱う屋台が立ち並ぶ。

 そのせいか、この広場に来るといつも複雑な匂いがする。


 紫は気にならないと言っていたが、鼻が疲れる前に市場をひとしきり見て回ることにした。


 早朝の買い出しに走る園芸師や日光浴を兼ねて商品を覗く植物体でごった返していたため、市場の中心部の円形状に開いた場所に、崩れかけの石積みを見つけ腰をかける。

 行き交う人たちを紫と眺めていると、突然背中に水飛沫がかかった。


「冷てっ!」


 反射的に立ち上がり背後を振り向くと、芝生に設置された散水用のスプリンクラーが稼働していた。

 手前に設置された一つが、あちこちに水を撒き散らし、暴走してグラグラしている。

 ちょうど座った位置が悪かったらしく、おれの背中に直撃したのだった。


 幸い紫に水はかからなかったようで、急に立ち上がったおれを、きょとんとした顔で見上げている。


 肌を伝う水滴は集真藍が吸収して一瞬で消え去り、後身頃のみ不自然に濡れた跡が残った。

 不格好だが、今日は天気がいいので日差しを浴びていれば、そのうち乾くだろうと半ば諦めて、紫の隣に座り直す。


 肩を落としたおれを見て、何が起きたのか察した紫は、水に濡れて色が変わった布の裾を掴み、空気を含ませてパタパタと仰いでくれた。


 なんだか世話焼きの兄が戻ってきたかのように思えて、こそばゆくなって笑った。


「……紫、ありがとな」

「うん、どういたしまして」


 昨夜と変わらず、明るい声が返ってくる。


 兄と二人で市場を訪れた回数はそう多くないが、靴屋を訪れる前に、思い切って賑やかな場所に紫を連れてきたのは、正解だったのかもしれない。


 スプリンクラーの水を浴びた石畳は、朝日に照らされ金色に輝いていた。



 通りのひとけも落ち着き始めたころ、服を仰ぐ紫の動きがゆっくりになり、やがて静止した。


「ねぇ……陽、あのリスたちも園芸師なの?」

「リス?」


 肩越しに紫の横顔を覗くと、その視線は向かい側の穀物を扱う店へ注がれている。


 おれの座っている位置からは、屋台の屋根から吊り下がった小麦の束や大きな藁袋(わらぶくろ)が重なって、リスらしき動物の姿は見当たらなかったので、身体を横にずらす。


 すると、たしかに店の隅に置かれた木樽の上に、尻尾の長い小動物がいた。


 たぷたぷと溢れんばかりの水が入った如雨露(じょうろ)を、協力し合って頭上に抱えている。


 紫は彼らの様子が相当気になるのか、吸い寄せられるように歩き出したので、おれも後をついて行くことにした。


 屋台に近づいてみると、木樽の周辺には木箱で作られた花壇があった。

 小さな新芽が出始めたばかりのようで、何の植物かは見当もつかない。


 木樽に登ったリスたちは、五本の指で如雨露の底をしっかり掴みながらも、一歩一歩……と前に進むたびに、短い腕がプルプルと小刻みに震え出す。


「待て待て! 水ならおれが代わりに撒いてやるから」

「え、本当かい? 赤い集真藍さん、親切にありがとう! はぁ、重かった!」


 おれは思わず止めに入り、リスの手からずっしりと重い如雨露を受け取って、彼らの指示通りに水を撒く、そしてまた新しい水を広場の井戸から汲み上げてきて、如雨露に注ぎ直す。


「隷属の鎖をつけていないけど、園芸師じゃないのか?」

「俺たちは全員、見習い園芸師さ。まだ植物体の皆さんのお世話ができないから、こうして食用ハーブを育てているんさ」

「そうなのか、見習いも大変だな」

「おかげで助かったんさ。植物体の皆さんに優しくしてもらえるなんて感激だ」


 他の植物体と園芸師の関係がどうなっているのか知らないけれど、花と暮らすおれたちはお互いに助け合うのが当たり前だから、こんなことで喜ぶのかと、決まりが悪く首をさすった。


「高い位置から水を撒かないほうがいいよ。芽も傷むし、せっかく耕した土に穴が空くよ」

「仕方ないんさ。俺たちは背が低いし、低い場所から水やりをすると今度は土や種が流れてしまうんさ」

「あっちにスプリンクラーがあったから、活用したらどうかな?」


 スプリンクラーの水が届くところまで、花壇を移動させようか? そう提案すると、リスたちは目を見開き固まった。


 余計なことを言ったかと、おれは咄嗟(とっさ)に口に手を当てた。

 見習いとはいえ、相手は園芸師になる者たちだ。

 植物体に助言されて喜ぶ者ばかりではないし、プライドもあるだろう。


 内心焦りながら様子を伺うと、ぱちぱちと数回瞬きして一匹が再起動。

 まだ停止状態の仲間の頬っぺを叩いて、花壇の置き場所について話し合いを始めた。


「こっちの苗は赤くて丸くて甘い野菜がなるんさ。実がなったら今日のお礼に差し上げるんさ」


 見習い園芸師たちは食用ハーブが植えられた木箱とは別の菜園も作っているようで、紫は膝を抱えながら小柄なリスに野菜の栽培について説明を受けていた。


 おれの記憶にいる兄と同じ懐かしい笑顔を向けて、親しげに会話をしているというだけのことなのに。

 苦杯くはいをなめるような感覚が胸に広がり、自分の眉間にしわが寄ったのがわかった。


 リスたちが悪いわけじゃない。

 紫だって、知らない場所で不安の中、真面目な彼らとの交流を純粋に喜んでいるだけだ。


 おれや花以外と接することも記憶を取り戻すのに必要なのだと割り切るには、おれの心はまだ幼かった。


 しぶしぶ水やりを再開すると、市場の匂いとは異なる優しい香りが鼻に届く。


 大量のカモミールを乗せた荷台が、鈍い音をさせながら通り過ぎる。

 丸く膨らんだ黄色い芯を囲む細く白い花びらが、そよ風に吹かれていた。


 おれと兄はあんな風には絶対にならない。

 昨年の冬を越せなかった者たちの末路を目の当たりにして、如雨露を持つ手に力が入った。



「野菜もいいけど、仲間が作った果実も絶品なんさ」


 すいすいと流れるように紫の肩に乗った小柄のリスは、今の市場の流行りは柑橘類と乳製品だと語る。

 閑散とした穀物屋から二軒先の果実屋は、両隣の店に買い物客が溢れるほど混雑していた。


「そういえば、陽の家にもたくさんの柑橘類があったね」

「花が買い込みすぎなんだよな」


 二人分の消費量をはるかに超える果実を購入していたことを思い出し、おれは笑うしかなかった。


 集真藍の王の気まぐれ以降、疑心暗鬼になった植物体と園芸師によって果物屋は今日も大盛況なのだ。



「白い子が来たわ!」


 果物屋から袋を抱えて出てきた青い集真藍の声が、遠くまで響いた。



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